【濡れた袖】 「バイバイ、また明日ねー」  眩しい太陽の下。友達と別れた僕は、車の通る道から、少し離れた家まで歩いた。ドアの前 で立ち止まると、首からぶら下がっている鍵をいつものように胸元から取り出し、ドアの鍵を 開けた。そして、ガチャっと扉を開ける。 「ただいまー」  返ってくる声はなかった。僕の家は共働きで、お父さんはサラリーマン。お母さんはパート をしていて、学校が終わり、家に帰っても誰も居なかった。  僕は鍋に水を入れ、お湯を沸かし始めた。鍋の底からポコポコと泡が浮かんでくると、お湯 が沸いたサインだ。インスタントの「塩らーめん」の袋を開け、煮ること五、六分。僕にとっ ては見事なラーメンで出来上がりである。   おやつと言えば、家に居るお母さんが作ってくれたケーキやクッキー。それがなくてもス ナック菓子みたいなものなんだろうけど、なぜか僕は「塩らーめん」が好きだった。  食べ始めると同時にテレビをつけ、アニメに夢中になっていた。そうしているうちに窓の外 にはライトの点いた車が通っていた。  次の日も太陽は眩しかった。家に帰ってすぐ鞄を乱暴に放りなげ、いつものように家に鍵を かけて、すぐ外に飛び出した。もちろん、鍵の閉め忘れが無いかのガチャガチャは忘れていな い。――はず。少し心配になりながらも友達の家へと走った。  友達の家に着くと友達が玄関で待っていた。 「はやく入って! ゲームしようぜ!」  息を切らしている僕を友達はせかした。そのうしろから友達のお母さんが顔をだした。 「いらっしゃい。後でおやつもってくからね」  優しい笑顔のおばさんが、にっこりと微笑んでくれていた。  いつものようにゲームに熱中して、おばさんが出してくれたケーキを食べながら、楽しい時 間はあっというまに過ぎた。外の景色はみかん色に染まっていて、そろそろ家に帰る時間だ。 おばさんに、「ごちそうさまでした」の挨拶をちゃんとして、友達とバイバイした。  家に着いた時にはライトの点いた車も走っていて、近くでは灯りが点いている家もあった。 どこからか、カレーライスのおいしそうな匂いもしている。鍵をいつものように胸元から取り 出した。 「ただいまーっ。」 「…………」  返ってくる声はない。  外よりも暗く感じる部屋の中に入ると、目には涙がたまっていた。ついさっきまでの友達と の楽しい時間、何よりも友達の家にはお母さんがいつでも居て、笑ってくれている。 それを思い出すと、お腹の奥のほうがギュっと締め付けられる。 『どうして家に帰っても誰も居ないの?おかあさんが家にいないの?友達の家はみんな帰った ら「おかえりなさい」って言ってもらえる人がいて、お母さんじゃなくてもおじいちゃんとか、 おばあちゃんとか、誰かいるじゃんっ……』 『みんな、みんな――、どうしてうちは』  我慢していた気持ちがいっせいに飛び出す。大粒の寂しさがぽろぽろと、次から次へと溢れ 出した。大きな声をだしても誰にも届かない。寂しさが、服の袖をぐしょぐしょに黒く染めて いた。 「ひとりぼっちだ……」    ――ピリリリリィ、ピリリリリィ、ピリリ……  俺は、携帯電話の着信音で目が覚めた。出ようとした時には着信音は止まっていて、着信履 歴を確認するために、ぼやけた視界のまま携帯電話を開いた。  履歴には「自宅」と表示されていた。時刻は午後九時を回っていて、記憶があるのは八時頃 までだったと思う。数日間の徹夜仕事のせいで、いつの間にか眠ってしまっていたようだ。  「そりゃ眠くもなるよな」  自宅に折り返しの電話をすると、二時間位前に帰宅したであろう妻がでた。 「ああ、俺だよ。電話くれたよね? なにかあったのか?」 「今日は帰って来られるの? 夕飯はどうしたらいい?」 「ごめん、今日も帰れないな。明日は帰れると思うから――。うん、ごめんね」  妻との会話の途中、お腹の奥のほうがギュっと締め付けられる。「あいつ、まだ起きてるか のな――」数日間見ていない息子の顔が浮かんだ。 「なあ、優輝まだ起きてるか? 起きてたら代わってくれ」  電話の向こうで妻に呼ばれ、返事をする息子の声が聞こえた。 「ゆう、まだ起きてたのか? そろそろ寝ないとダメだぞ?」 「お父さんを待ってたんじゃないかーっ。今日は早く帰って来るって言ってたのに、お父さん の嘘つきー」  お腹の奥のほうを締め付けていた力がいっそう強くなっていくのを感じた。 「ごめんな、明日こそ早く帰るから、な? 今度こそ約束だ!」  息子のふてくされた顔が想像できる。今度の約束も守ってもらえないと思っているに違いな い。情けない父親だと思いつつも電話を切った。  俺は残りの仕事をかたづけた。今日も徹夜になってしまったが、明日予定していた仕事の一 部もかたづけることができた。  太陽は西に傾き、街なみを染めていた。東の空では寂しげな青が、グラデーションを作りは じめている。久しぶりの息子とのキャッチボール。帰り道に長く伸びている二つの影法師。そ の小さな方がピタっと止まった。 「お父さん、楽しかったね! 約束、守ってくれてありがとね!」 「そうか、お父さんも楽しかったぞ! お前、上手くなったなー。また、来ような」  みかん色の涙が目に溜まる。 「うん! でも、お腹すいちゃったよ……」  妻が帰って来るまで、まだ時間がある。涙を覚られないように服の袖で拭うと、少し悩んだ 俺は、家の台所を思い出した。 「ゆう、塩らーめんでも食うか?」