ムイとアタカ ■昨冬  ムイの雪だるまは円錐型だった。 「砂場で山を作ってるわけじゃないのにね」ムイは不器用な自分を自嘲するように誰にいうこともなくつぶやいた。十 年振りにこの温暖な気候の街にも雪が降った。それがムイにとって初めての雪だった。 「おうち入ろ。冷えてきちゃった」  ムイはぶさいくな円錐の雪だるまを見下すように立ち上がった。雪のついた厚い手袋をはたき、玄関まで歩く。手の 内に白い吐息を吐き出して頬を暖める。顔をあげるとひと粒の雪が、ぽかんとあけたままのムイの口の中に入ってきた。 真っ白な大空を見渡せば、次から次へとさあ食べてくれといわんばかりに雪は降ってくる。ムイは大きめの結晶を選び ながら、それらをぱくんと飲み込んだ。 「もういいのかい?明日になれば、きっと雪は溶けてるよ」  ムイが戸を開こうとすると、円錐の雪だるまのところでまだ雪をかき集めていたアタカが後ろから追いかけるように 言った。ムイは中開きになった戸を押したり引いたりしながら、もじもじとしばらく思案する。古びた戸が痛々しそう にギシギシときしむ。― あったかいポタージュ飲みたい。雪だるまかポタージュか、意を決して選択したムイは、甘 えるようにほがらかに微笑んだ。二人は外と変わらなく冷え込んだ、彼らの我が家へ引き返した。 「お兄ちゃんがサンタクロースだってこと、知ってるんだよ」  板がところどころはげ落ちたテーブルの上で、ムイはポタージュのカップを両手で半回りずつくるくると回しながら 言った。キッチンでレタスをちぎっていたアタカがとっさにムイの方へ振り向くと、彼女は窓辺から降りしきる雪にぼ んやりと目をやっていた。「明日も降らないかな」ムイは窓の向こう側につぶやいた。  雪の降る夜はこんなにも静かなものなのか、とアタカは思った。ただシャリシャリとレタスをちぎる音だけがこの世 界の奥行きのように彼は思えた。アタカは手を止め眼をつむり、静かな夜に希薄していく世界に耳を傾けた。遠くの方 で狼の遠吠えが聴こえた。このボロ屋の屋根から滑り落ちる雪の塊の音も聴こえた。そしてアタカの一番身近な雪の夜 の音は、ムイが唇についたポタージュを小さな舌でぺロリと舐めとる音だった。  アタカが調理し終えたサラダをテーブルに持っていくと、ムイは椅子とテーブルの隙間で寒そうに体を丸めてがたが たと震わせていた。アタカは自分の椅子をムイの隣に寄せて、そっと彼女の背を暖めるようにさすった。 「お兄ちゃん、まあるい雪だるまほしい」ムイは影になった床をじっとみつめながら、震える体を両腕でくるんでさす る。「お兄ちゃん、サンタクロースでしょ?」 「雪だるまなら、さっき作ったじゃないか」 「違うの!もっとちゃんとした、ちゃんとしたのがいいの」  ムイは縮こまった体を勢いよく起こすと、テーブルの裏に頭をガツンとぶつけた。ぶつけた痛みでなみだ目になりな がらも、もう一度窓から雪を眺める。雪だるま、と無音のなかでも耳をすまさなければ聞き取れないほど小さな声でま たつぶやいた。 「ムイの雪だるま、とても素敵だと思う」アタカは後頭部をやさしくなでる。「ちょこっとだけへんてこだけど、僕は 好きだよ」ムイが眠っている間に雪だるまを作ったとしても、朝になればもう溶けている。明日も雪が降ればいいのに、 アタカはそう思ってムイの涙を拭った。アタカが窓の外を覗くと、いまだ降り積もる雪が膨らませたまるでかまくらの ような、もはや円錐でさえないあの雪だるまと目が合った。残念だけど君はとってもぶさいくだね、アタカはムイの頬 におやすみのキスをしながら思った。 ■春  ムイのキリンは怪獣だった。  廃屋の傍ら、ムイは折れた木の枝で土に絵を描いていた。小さな虫が草むらから現れてムイの怪獣にのみこまれる。 ムイはのったりとごそごそした虫の前に枝を添えて這い上がらせ、自分の怪獣から救い出す。虫は登った枝の中ごろで 背中をぱっくりとあけ透明な羽ではばたくと、今度は空の上で白い太陽にのみこまれていった。そろそろアタカが帰っ てくる。それまでにゾウとチーターと、あとペンギンも描かなきゃならない。べったりとお尻をつけて開いた股の間に、 ムイの新しい怪獣が生まれていく。 「ムイ、洗濯物しまってないじゃないか」  突然の声にびくりと後ろを振り向くと、アタカが買出しの白いビニール袋をぶら下げてムイの絵を覗き込んでいた。 「これは、怪獣かな?」  アタカはやさしく微笑んだつもりだったが、逆光で影になった彼の顔がムイを恐がらせた。違う、と心細そうにうつ むいてムイはつぶやく。ぜんぜん、違う。 「じゃあ、なんだろう」アタカはそっと腰を下ろし、彼女の髪をなでながらいう。「あ、キリンかな?」 「違う、怪獣!」  ムイは擦り切れるような叫びをあげ、木の枝を強く握り締めてぎりぎりと土を掘る。力をこめすぎたためにパキンと 先が折れてしまう。アタカの影で暗くなった怪獣が、ざっくばらんな線で元の形を失っていく。 「どうして、せっかく描いたのに」残念そうにアタカは上書きされた線を手で払い、キリンらしき姿を取り戻していく。 「ハム買ってきたんだ。お昼にサンドイッチ作ろう」  ムイは返事をしなかった。折れて短くなった枝でがむしゃらにキリンを壊していく。途方に暮れたアタカは黙ってそ の場を去り、お昼を作りにふたりの棲家である廃屋へ引き返した。  豊かに晴れ渡った春、冬の雪だるまもムイの記憶から次第に薄れていった。あれほどねだったまるい雪だるまよりも、 今ムイが欲しいのは、アタカにちゃんとわかってくれるキリンの絵だった。不器用な自分が嫌になる。ムイは両手で怪 物たちをかき消した。急に心細くなったムイはアタカを追うように振り向くと、その先に干したままの洗濯物がかかっ た物干し竿をみつけた。取りくもうかと思ったが、アタカが自分のことなど知らんぷりしてドアを閉めたため、そっぽ をむいて逃げるように路上へ飛び出した。  こつん、こつんと小石をつま先ではじきながら畑で開けた土の道を歩く。手を後ろで組み、鈍感なアタカを憎むよう にしかめつらをする。空を見上げると、灰色の鳥が頭上の高いところでキイキイと鳴きながら翼を広げ旋回していた。 ムイは思い出したようにその場にしゃがみ込み、小石を使って大きく翼を羽ばたくその鳥を描く出した。まだ怪獣と間 違えられたことを気にしているのか、地面に向けられた鼻歌は少し濁った音を奏でている。それでも少しずつ、鳥の形 ができてくる。通せん坊をしているようなまっすぐに翼を突き出した、腹を向けているのか背中なのかはっきりしない 鳥の絵だったが、描き終えてしまえば軽やかな鼻歌のリズムを取り戻してムイは自分の絵に見入っていた。  蛇口から流れる水ががちゃがちゃと食器を鳴らす。水しぶきがアタカの片目にちくんと刺した。目をつぶって痛みに こらえながら、やはりあれは角じゃなくてキリンの長い首だったのか、そう確信すると、あの絵のあまりの下手さに思 わず吹き出してしまった。ぱっくりと割れたまるいパンにレタスとハムを挟み、戸棚からいちじくのジャムを取り出し てハムに塗る。お詫びというわけにもいかないけれど、とびきりおいしいサンドイッチを作ってあげよう。  テーブルの上にはムイの作り方の積み木が散らばっていた。積み木といっても庭の小枝や石をざっくばらんで寄せ集 めたものだ。積み木の中央にぽつりと置かれた土の払われていない二つの石があったが、それだっていったいなにを表 しているのかは見当がつかない。アタカはそれらを崩さないよう隅にお皿を置いて盛り付けをする。ムイは不器用なく せにものを作りたがる。そのたびに心を躍らせてアタカにみようとする。外で何かが崩れ落ちる物音が聞こえた。洗濯 物をしまい忘れたことを思い出すと、物音に混じって小さな悲鳴が耳に入った。 「お兄ちゃん!」ムイは小さな体にタオルやシャツなどめいっぱい抱えて玄関の前で突っ立っていた。タオルの端が地 面の土まで垂れ下がり、ずるずると引きずられていた。「お兄ちゃん、鳥!」  アタカは手に持ったままのサンドイッチをムイに渡して荷物を受け取った。ムイは大好きなハムとレタスのサンドイ ッチに目もくれずに一心に鳥、鳥と叫んでいる。きょとんとするアタカの手を引っ張ってせがむ。いいから、きて!  ふたりはムイの描いた鳥の絵を囲むように座る。ムイがほら、ほら、といわんばかりの笑顔でいまだ空中で旋回して いた空の鳥とアタカを交互に目配せする。アタカはムイの持っているサンドイッチを小さくちぎり、絵の鳥の口へ放り 投げた。ムイがなに、なにと彼の行動を不審に思っていると、空の鳥がえさの匂いを嗅いで二人の前に降り立った。ム イの絵に重なってえさを頬張る。ムイは有頂天になった。 「わかったよ、ムイの鳥の絵」陽気になって自分も自分もとパンくずを投げるムイにアタカがいった。「一発でわかっ た」  振り向いたムイは、なんのことだかさっぱりわからないというふうに、満面の笑みで彼の分のパンくずをわけていい 返した。「おなか減った!!」  張り上げた声に灰色の鳥が驚いて飛び去る。その一瞬にムイの表情が曇った。蟻が列を作ってパンくずに群がってく るのに気づく。アタカは寂しそうなムイの手をそっと引っ張って起こす。さ、おうち帰ろう。テーブルの上の二つの石 は、きっと僕とこの小さなムイのことなんだ、アタカはそう思った。けれど僕はムイの気持ちになにひとつこたえてや れない。あのキリンも、この鳥だってムイの絵だけだったらわからなかったはずだ。それでもムイの泣く顔はみたくな い。アタカは涙をためてうつむくムイの手を握り締めながら、あの絵のところまで戻った。もう一度ふたりで囲むよう にしゃがむとアタカは絵のそばに、ムイの鳥、と指の腹で書いた。一度は命が吹き込まれたムイの鳥は、おそらく今夜 だけはずっと翼を広げたままはばたいていることだろう。ムイはアタカの手を握り返して微笑んだ。