居間でお昼の生放送バラエティ番組を見ていると、小学五年生の妹が凄い勢いでテレビの前に飛び込んできた。せっかくたたんだ洗濯物を容赦なくぶちまけつつアクションスターばりにゴロゴロ転がり、素早く片ひざをつく形で立ち上がる。 「やあ、おかえり智香子(ちかこ)。今日はちょっと早かっ」 「お兄ちゃんっ、しっ――あいつに気付かれちゃう」  僕の挨拶を冷たく一蹴し、妹の智香子は口元に指を当ててきっとこちらを睨んできた。どうやら黙れということらしい。  仕方なく黙る。  ぶつんっ 「あ、智香子お前、何テレビの電源切って――」  ブラウン管の露と消えた司会のタレントのサングラス。ゲストの女優の微笑み。ああ果たしてこれから親族の葬式を控えているという不謹慎な人間は、あの百人の観客の中に何人いたのだろうか。特設のモニターが結果を映し出す前に、不幸にもいつもより早めに妹の奇行が始まってしまった。 「……智香子、いくら日曜日だからってちょっとはじけすぎなんじゃないか」  またもや無視。  聞き耳を立てるように目を閉じていた智香子はおもむろに携帯電話を取り出すと、あろうことか液晶画面に話しかけ始めた。 「もう行ったのかしら――うそっ、こっちに向かってるって? 見つかっちゃったの? 今日は一回も変身してないのに――」  ぼそぼそと呟くと、二ヶ月ほど前になぜか手に入ったという白い子供用の携帯電話をたたんで立ち上がる。  そして僕を一瞥して一言、 「お兄ちゃん、私――絶対に生きて帰るからね!」  今までありがとうお兄ちゃん! と元気いっぱいに叫びながら、智香子は玄関を突き破るように外に出た。ご苦労な事だ。 「テレビテレビ」  リモコンを拾い上げて電源を入れると、拍手と共にマシュマロの大食いを披露する若手芸人のアホ面が現れた。口に詰め込みすぎたのか、溶けたマシュマロが白い液体になって口の端から垂れている。グロい。 「“ウルトラミラクルダークアルティメットチェーンジ”! “変・身”!」  智香子が外ではしゃぐ声が聞こえる。というかなぜダークという単語が入っているのか、僕の妹はなにか邪悪なものに変身するつもりなのかという疑問を挟む余地もあらばこそ、また何かをやらかしたらしくズシンと轟音が響いてきた。まるで、まるで何か大きなものが倒れたかのような――そんな音だ。  智香子の勝ち誇った笑い声が聞こえた。 「今回も、私たちの勝ちのようねっ」 「くっ……、魔獣ストリンガーがこんな小娘にやられるなんて……、覚えていなさい!」  続いて、艶やかな大人の女性らしき声が聞こえる。何やら捨て台詞を智香子に吐くと、それっきり声は聞こえなくなった。家に帰ったのだろうか。友達を増やすのは構わないが、人を選ばないのも考えものである。  数分が経ち、テレビ番組のエンディングと共に智香子が帰宅してきた。 「たっだいまー」 「おかえり、智香子」 「お兄ちゃんお昼ご飯はー?」  居間に現れた智香子。挨拶もそこそこに食事の心配をするあたりが彼女らしいと、テレビを見ながら僕は思った。  智香子は我が妹ながらあっぱれと思えるほどの胃袋の持ち主で、とにかくよく食う。ひたすらに食う。食べ盛りの僕や兄にも勝るほど食う。もしかしたら家族の中で一番食べるかもしれない。その食欲たるや凄まじいものがあり、本気で心配した母親が胃に虫でも住んでるんじゃないかと内科検診を受けさせたくらいに食うのだ。ところが我が家のエンゲル係数を急騰させている本人は至ってすまし顔であり、たくさん食べたからといって体脂肪も増えたりはせず相変わらずの幼児体型である。なんとも食べ甲斐のない体質だが、本人は別に自分が大食いだとは自覚しておらず、平気な顔で賞金つきの化け物定食を完食したりするのだ。  そんな智香子の食欲が頭角を現してきたのはちょうど二ヶ月ほど前で、それまではむしろ小食の部類に入る人間だったのだが――本当に人間ってわからないものだ。 「母さんが仕事行く前に作っといたのが台所にあるよ。ちゃんと食べる前に手洗えよ」 「はいはーい」  二つ返事で、智香子はフンフフンと鼻歌混じりに洗面所へと向かっていった。なにやら上機嫌だ。そんなに楽しかったのかさっきの遊び。  蛇口から水が落ちる音と共に、智香子が誰かと話すような声が聞こえた。  ――弱かったねぇ、さっきの敵。  テレビの中では、次のトーク番組が始まっていた。マスコットキャラクターの熊の着ぐるみがタレントのおっさんと共にカメラの前に現れる。  ――しょっ、しょうがないでしょ変身するとお腹空くんだから! お兄ちゃんはそんな事思ってないもん! ……多分。  誰と話しているのだろう。そう思いかけて、携帯の液晶に話しかける妹の姿が脳裏をよぎって無理やり考えるのをやめた。どうもあの白い携帯電話を手に入れてから様子がおかしい。  ぱたぱたと智香子が廊下を走ってきて、ご機嫌な様子で僕にたずねた。 「ごっはん、ごっはん、おにーちゃんお昼ご飯はー?」 「だから台所だって」  平和な昼下がりだった。 ◇ 「お兄ちゃん」 「なに?」 「五十六かける七っていくつだっけ?」  ちゃぶ台を引っ張り出して学校の宿題らしい計算ドリルを解いていた智香子が、僕にたずねてきた。 「えーっと、四十二で四くり上がるから三十五に四たして――三百九じゅ」  平和なお茶の間に、突如としてポーンポーンと場違いな高音が流れた。  その音は現在ニュース番組で“若者たちの心の闇 働かない心理とは? 深刻化するニート問題特集”を放送しているはずのテレビから出ていて、見ると、現役ニートだという若者の頭上に白いテロップが点滅していた。  いわゆる。ニュース速報である。  『四時三十分頃 都内の廃ビルが原因不明の倒壊』  智香子が不安げな声をあげた。 「ねぇこれなんだろお兄ちゃん。速報だって速報。なんか怖いよう」  これなんだろって、そりゃニュース速報である。智香子には大した事ないから大丈夫だよとだけ言って、僕はテレビを見続けた。  ニュース速報なんて別に珍しいものではないが、やはり平和にテレビ番組を見ている最中にあの音に割りこまれるとドキッとするものだ。それにしても廃ビルが倒壊って一体どういうことなのだろうか。人の居るビルならともかく、朽ちた廃墟が壊れたくらいで大げさなんじゃないか。  ニート特集が終わり、アナウンサーが画面に現れる。 「えーと、はい、速報です。都内の、えー、新宿区にある廃ビルがですね、午後四時半ほど――つい先ほどなんですけれども、えー、倒壊、ですか。原因不明の倒壊を見せた、とのことです。ただ今取材班が現場に向かっておりまして、詳しい情報がこちらに入り次第お伝えいたします」  早口にそれだけ言って、ニュース番組は元の落ち着きを取り戻した。海外メジャーリーグで活躍する日本人選手の報道に入り、アナウンサーが陽気な声でスポーツコーナーを呼び出す。  画面が切り替わる直前に、スタジオの誰かが叫ぶような音が聞こえた。  直後、スポーツコーナーで待機する女子アナが映った――と思った次の瞬間には、ヘリコプターで上空から映したものらしい映像が現れた。画面右上にはLIVEの文字が躍り、騒々しいプロペラ音の隙間に、男性アナウンサーのものらしき声が聞こえる。  画面には、倒壊した廃ビルが映し出されていた。 「わ……」  智香子があっけにとられたような声をあげた。そりゃそうである、壊れ方が尋常でない。  まず、コンクリートが粉々に――いや、まさに粉末状に砕かれてしまっている。一見すると灰のようだが、ところどころに見られるコンクリートの塊が視聴者たちに現実を突きつけているようだった。ガラス窓も粉々に砕かれ、粉末化したコンクリートの中でキラキラ光っているがお世辞にも美しいとは言えない。ビルを支えていたであろう鉄骨は強引に捻じ曲げられたような不自然な形に歪み、ビルごと掴んで曲げられたかのように全て揃って曲がっている。あまりの強風で木が皆同じ方向に曲がって育ってしまった林か何かをテレビで見た事があるが、ちょうどそれを彷彿させる光景だ。 「はいっ、番組の途中に失礼いたします中継です。えー、このビルなんですが、ごらんのようにですね、コンクリートとガラス窓はこのように粉々になっておりまして、鉄骨は奇妙に捻じ曲がっております。倒壊の原因は一切不明。火薬を使われた痕跡はなく、通報者が発見した時点ですでにこの状態だったということです。繰り返します。ビルの倒壊原因は一切不明。火薬を使われた痕跡は」 「ただいまー」  ドアを開ける音がして、誰かと思えば高校二年生になる兄だった。 「おかえり、義之(よしゆき)兄ちゃん」 「お兄ちゃんおかえりー」  一家には両親と長女と三兄弟が居て、僕が三男で義之は次男だ。一つ屋根の下に暮らしているのはここまでで、長男の拓也は大学進学と同時に念願の一人暮らしを始めていた。 「お、おう。あのな、兄ちゃんちょっと皆に紹介したい人が――」 「はじめまして、塔葉 翡翠(とうば ひすい)です」  口ごもる義之の後ろから、一人の女性が出てきた。細身の体、白い肌、腰まで伸びた黒い髪。双眸に宿る色は微かに青みを帯びていて、端正な顔立ちもどことなく西洋人を彷彿させる。一歩前に出て丁寧にお辞儀をする姿はいかにも女らしく、どこかの小五にも見習って欲しいところだ。 「えっと、兄がいつもお世話になってます」  つられてお辞儀。  義之の同級生なのだろうか、それにしたってあのヘタレ兄がこんな美人を連れ込めるとは考え難いが。 「あっれれぇー、お兄ちゃんいつの間に彼女なんて作っちゃってるのカナー?」  智香子がはしゃぎ始めた。それにしてもこいつは三人いる兄を全員区別なく『お兄ちゃん』と呼ぶので、ややこしくて仕方がない。今はまだマシな方だが、まだ拓也が高校生だった頃はそのせいで混沌としていたのを覚えている。  義之が嬉しそうに反論する。 「ばっ、ばかそんなんじゃねーよ! こいつはただの」 「ええ、私はただの同級生ですから。少しお邪魔しますね」  ニヤニヤが止まらない兄の腕を塔葉さんが引っつかみ、挨拶もそこそこに家の奥へと引っ張っていった。小声で叱りつけているような声が聞こえるが、なんと言っているのかはわからない。  一息つき、テレビに視線を戻す。  現場の中継は一旦切られ、話題は某国の潜入ドキュメントに移っていた。  沈黙。  おもむろに、智香子が口を開いた。 「お兄ちゃん」 「ん?」 「あの人とお兄ちゃん、付き合ってるのかな」  ここでいう“お兄ちゃん”とは、義之のことである。 「さあ、まだ付き合ってはいないんじゃない?」  背中で返事。  うーん、と考えるように智香子がうなった。恐らく計算ドリルの問題とは別の事を考えているのだろう。 「お兄ちゃん」 「なに?」 「あの二人、今お兄ちゃんの部屋にいるんだよね」 「うん」  沈黙。  テレビの中では某国からの亡命者が、音声を変えて悲惨な強制労働の実状を告白していた。 「なに話してるか気になったり」 「しないな」  本心だった。 「で、でも私はちょっと気になっちゃったり」 「そうか」  要するに、だ。 「じゃあ、盗み聞きすれば?」  智香子は凄い勢いで首を横に振り、 「そそそそそんなんじゃないもん! 盗み聞きとかじゃなくて、ほら、だから、その、ただ」  沈黙が訪れる。 「もっ、もう、いいから行くよお兄ちゃん!」 「いやだからなんで僕も行かなきゃいけな」 「いいからっ!」  智香子は計算ドリルと筆記具を放り投げると僕の腕をがしっと掴み、大またで義之の部屋に向かっていった。扉の前で片ひざをつくと、どこから持ってきたのか紙コップを取り出して僕に手渡す。 「これ使って」 「古典的すぎないか」 「いいから使うの!」  仕方なくコップの飲み口を扉に当て、耳を底面につける。しばらく耳を澄ませると、室内の会話が聞こえてきた。  ――な、なんだよ別にそんな怒んなくても良いじゃねーかよ  義之の声だ。  ――そーいう危機感のなさが問題なのよ! 見たでしょテレビ? あんなニュースになってるのよもう。倒すのがあと五分遅かったらどうなってたか……  これは塔葉さんの声だろう。風で鈴を転がすような、透明で美しい声だ。  ――んなこと言ったって、あそこで避けなかったら俺死んでたし 「お兄ちゃん……、お兄ちゃん……!」  さっきから下から袖を引っ張られていると思ったら、智香子がしきりに僕を呼んでいた。  小声で応じる。 「なに?」 「何の話してるんだろ?」 「さあ、見当もつかないよ」  嘘だ。  少なくとも見当はついている。あの二人が話しているのは、多分例の廃ビルについてだ。恐らくビルの倒壊にあの二人が関わっていると考えてまず間違いない。場所と時間を考えてもちょうど合点がいく。どのように関与したのかはもう少し調べる余地があるが――  ――お、おいどうした。急に黙っちゃって  ――いいから、静かにして 「お、お兄ちゃん」  智香子と目を合わせる。  ――外に、誰かいる  ばれた。 「行くぞ智香子。良いか、僕らはずっとリビングでテレビを見ていて、義之兄ちゃんの部屋はおろか廊下にさえも立ち入らなかった」 「う、うん」  うなずきあい、智香子を先頭に足音を立てないよう注意しながら走り出す。走るというよりむしろ早歩きといったあんばいだが、足音でばれてしまうよりは良い。  紙コップをゴミ箱に放り込み、急いで居間に戻る。素早くソファーに腰掛け、テレビを前にあくまで自然な兄妹の一場面を作り出した。  完璧だ、と思った矢先。 「誰だっ!」  塔葉さんの怒声。  自画自賛する間もなく、廊下の奥から鈍器で勢いよく板を叩いたような音が聞こえてきた。どうやら義之の部屋の扉が勢いよく開いたらしい。 「んだよ、やっぱ誰もいねーじゃん」 「でっ、でも確かに気配が……」  二人が話している。極力気にしないことにする、 「お、お兄ちゃん……」  智香子が不安げな視線を向ける。 「落ち着け智香子。僕らはずっとリビングでテレビを見ていて、義之兄ちゃんの部屋はおろか廊下にさえも立ち入らなかったじゃないか」 「う、うん」  大体最初に盗み聞きを提案したのは智香子だったような気がするのだが、そこについては触れない事にした。兄の優しさというやつである。  少し経ち、塔葉さんが居間に出てきた。後ろから義之が続く。 「では、そろそろおいとまします。お騒がせ致しました」  ぺこり、と頭を下げる塔葉さん。 「はあ、またいつでもどうぞ」  とりあえず最低限の社交辞令を済ませ、義之に目で合図する。 「お、おうっ、塔葉、送ってってやるよ。えっと、すぐそこまで」 「別に一人で帰れるけど、まあ良いわ」  玄関に立つ義之の後ろに回した右手に、親指が元気よく立っていた。別にそんなつもりで目配せしたわけではないのだけれど、まあ二人が幸せならそれも良いだろう。  十数分後、帰ってきた義之の顔がにやけっぱなしだったのは言うまでもない。むこう一週間は絶対顔洗わねぇ、と不潔な誓いが聞こえた気がした。 ◇  それは放課後の帰り道での事だった。  途中まで帰路を共にしていた中学の同級生たちと別れを告げ、僕は自宅へと続く道を歩いていた。そこは住宅街と住宅街を結ぶ連絡路のような道で、ゆるやかな坂道になっていて道幅は広く、周囲に家もない。飾り気もへったくれもない無愛想な道路だが、申し訳程度に道の両側に街路樹が立っていた。  立っているはずだった。 「……見事に壊されてるな」  街路樹が植えてあったであろう場所には今や苗の陶器の破片と栄養満点の土が所在無さげに散らばっているだけで、肝心の木もすぐ近くで無残な姿で横たわっている。少し先を見渡しても同じような状況で、道の両側にあった街路樹は全滅らしかった。 「帰り道、変えようかな……」  そんな考えが脳裏をよぎったが、なんだか街路樹に負けたような気がしたのでやめた。  そうやって街路樹の残骸を辿りながら歩いていると、ある一線を境に街路樹が復活していた。線の前後でこれといった変化もないが、正面の少し離れたところには明らかに異様な光景が展開されている。  智香子が、怪物と戦っていた。 「…………」  なんていうか、言葉に出来ない光景だった。  三十メートルほど前方にはゴリラを三倍ほどの大きさに巨大化させて亀の甲羅を背中と手の甲にくっつけたような妙な生き物がいて、智香子を狙ってパンチを繰り出している。智香子の体ほどある毛だらけの拳が地面に下ろされるたびに大地が揺れ、地震が起きているような錯覚に襲われた。  その巨大な生き物の周りを飛んだり跳ねたりして戦っている智香子の格好は、明らかにいつもと違っていた。メイド服とウェディングドレスを足して二で割ったような白くてヒラヒラの妙な服を身に着けていて、手元には明らかに装飾過剰なペロペロキャンディーのような棒が握られている。ゴリラの足元には智香子の赤いランドセルが放り投げられていて、今にも踏まれそうで危なっかしい。  ゴリラの右拳が智香子を狙った。 「智香子っ、危ないペポ!」 「くっ――――!」  間一髪、跳躍してかわす智香子。大したジャンプ力だ。ていうかペポって。 「まさかあの携帯電話――」  注視してみると、智香子所有の白い子供向け携帯電話が、宙に浮かんで智香子にしゃべりかけていた。いや、携帯電話にそんな機能があるわけないのだが、明らかにそうとしか思えない光景だった。その声に合わせて折りたたみ部分が小刻みにカパカパ動いているし、ゴリラの攻撃を器用にかわしながら智香子の付近を浮かんでいる。  智香子が着地した。  その瞬間を狙う拳があった。 「智香子っ、危ないペポ! バリアを張るペポ!」  どうもあの携帯電話のせいで緊張感を削がれている感がある。 「――くっ、“パラレルマジカルミラクルバリアー”!」  叫びながら、智香子が両腕で持ったキャンディー棒を拳に向けて突き出した。棒の先端からからピンク色の光が飛び出し、横倒しのドームのように広がって智香子の前方を防護する。  衝突。  次の瞬間には、智香子が砂埃を上げて道路をゴロゴロ転がっていた。ピンク色の光が緩衝材になったらしく外傷はないが、中身はただの小五女子である。 「ち、智香子っ――」  いくらなんでもこれ以上はまずい。どうにかして止めようと前に出ようとしたが、僕の直感が歩を止めさせた。  何か――  砂埃の中に何かが、居る。  ゆっくりと、砂塵の幕が晴れてゆく。 「――ったく、なに無茶してんだよ、智香子」  聞き覚えのある声。  そこには、細身の西洋剣を構える塔葉さんと、  智香子の肩を抱く、義之の姿があった。 「え」  想定外である。 「え、塔葉さんと、義之って、え、なに?」  混乱を禁じえない。心なしかゴリラも憮然としているようだった。 「義之、智香子ちゃんをお願い」 「おうよ」  黒い髪、白い肌、青みを帯びた瞳。細く鋭い白刃。セーラー服。そしてゴリラ。何から何まで荒唐無稽でちぐはぐだ。 「お、お兄ちゃん? え、ていうか、なんで?」  智香子もびっくりだ。そりゃそうであろう。  義之が口を開く前に、ゴリラが動いた。 「義之っ、限定結界を張って! 私一人でやる!」 「あいよ」  塔葉さんが地面を蹴り、義之が掌底をアスファルトに叩きつける。塔葉さんがゴリラの拳をひらりとかわし、義之と智香子の周囲に薄く青い光の幕がドーム状に広がった。 「何が起こってるんだ、一体」  独り言が漏れた。  光のドームの中で、義之と智香子が何かを話している。あの青い光には多少音を遮断する性質があるらしく、何を話しているかはわからない。時折例の携帯電話がふわふわ浮かんでパカパカしてみたりするが、全く無視されているようだった。  獣の咆哮が聞こえた。  見れば、ゴリラの右腕が肩からごっそり斬り落とされていた。傷口から鮮血が噴水のように噴出している。恐らくやったのは、血の滴る剣を持っている塔葉さんだろう。  彼女が剣を素振りした。血がとび、刃に射抜くような光が戻る。骨まで斬ったのに刃こぼれもしていないらしい。  ぶっ壊れて暴発したチェーンソーのエンジンのような鳴き声を上げながら、ゴリラが左の拳を振り上げた。  塔葉さんが跳び、空中で剣を構え直す。 「遅いっ!」  一閃。  ゴリラの頭部が吹き飛んだ。拳が下りる前だった。著しい生体機能の低下と共に、両腕と背中についていた甲羅がぽろりと取れて落ちる。  気まずい空気と、巨大生物の悲惨な死骸だけが残った。  気付かれないうちに、僕はその現場から立ち去った。  やっぱり、回り道して帰ろう。 ◇  数日後。  智香子がいつもの奇行から帰宅したと思ったら、後ろに義之と塔葉さんがついてきていた。 「お兄ちゃんただいまー」 「ただいまー」 「お邪魔します」  前の二人は当然のように義之の部屋へと向かい、一番後ろの塔葉さんだけがぺこりとお辞儀をしてくれた。ごゆっくりどうぞと社交辞令を済ませ、宿題の残りに取り掛かる。ゴリラの一件以来、あの三人は妙に仲が良くなってしまった。二日に一度は三人揃って義之の部屋で妙な会合を開いているようだし、なんだか僕だけ蚊帳の外だ。まあ正確には少し違うのだけれど。  携帯電話が鳴った。  ポケットから取り出して、表示を確認する。知り合いからの電話だった。 「もしもし」  見せたいものがあるから二丁目の公園に来いと告げられた。やりかけの宿題と天秤にかけ、宿題の敗北を確認する。 「あー、うん、わかった。すぐ行く」  電話を切り、身支度を整える。上着を羽織り、髪の撥ねを直し、玄関に立ってドアノブに手をかけたところで運悪く智香子に見つかってしまった。 「どこ行くのお兄ちゃん?」 「ちょっと人に会いに」 「人って?」 「智香子には関係ないだろ」  ふぅーんと智香子が探るような目つきで僕を見て、何を思ったか義之と塔葉さんを呼び出した。 「お兄ちゃーん、とうばちゃーん! お兄ちゃんこれから出かけるってー!」 「ちょ、智香子お前、あの二人呼んで何する気だよ」  いいからいいからと智香子が言い、義之と塔葉さんがやってきた。  めずらしくまじめな顔で、義之が言う。 「どこ行くんだ?」 「二丁目の自然公園だよ」 「二丁目か……」  なんなんだ一体。  なにやら考え込む義之に、塔葉さんが耳打ちした。 「……そっか。よし、じゃあそこに俺らもついてくわ。良いな?」  良いわけがない。 「いやいや困るから。人と待ち合わせしてんだって公園で」 「誰とだよ?」  お前も聞くか。 「誰とは言えないけど――まあ、大事な人だよ」 「あれー、彼女カナー?」 「あ、そーゆー事か。お前もスミにおけねーなー」  智香子と義之が二人揃ってはしゃぎ始めた。だめだ、こいつらに付き合っていては日が暮れてしまう。 「じゃ、じゃあ僕もう行くから!」  強引に扉を開けて外へ飛び出し、三人の制止を振り切って走り出す。百メートルほど走ったところで後ろを振り向くと、どうやら誰も追ってきてはいないようだった。 「……やれやれ」  外に出るにも体力を使う。これから先が思いやられるな、と僕は思った。あの三人がなぜ僕についていこうとしたのか――まあ大方の予想はつくが、ついてきたからといって別にどうなるというわけでもあるまい。  そう思っていた。  少なくとも、この時は。   ◇  公園についたは良いが、誰もいない。  “二丁目の自然公園”といえばその辺にあるような空き地を埋めて作った小さな公園とは違って、それなりに大きなグラウンドがあるちゃんとした公園だ。待ち合わせ以前にまず人も一人もいないというのは異常なんじゃないか。 「……まあ、良いか」  とりあえず待ち合わせ場所であるグラウンドの真ん中まで行ってみようと、足を踏み入れた矢先。 「イィーッ!」 「――っ!?」  幾重にも重なった奇声と共に、全身黒ずくめの人間たちがどこからかグラウンドに現れた。それも何十人といった規模ではない。しかもよく見れば身につけているのは黒い全身タイツで、顔も目出し帽のように目と口しか露出しておらず、何の冗談か首の下から鳩尾にかけて白く肋骨のデザインが成されている。  そんな格好の人間が百数十人。  一体何があったと思わないほうがおかしいだろう。 「イーッ!」  その中の一人が、あろうことか僕に向かって走ってきた。冗談じゃない。キモい。 「お兄ちゃん危ないっ!」 「イーッ!?」  ゴムを弾くような音がした。  背後から何かが飛来してきて、走ってきた変質者一号を弾き飛ばした。というか、今の声はもしかして。  振り返る。  例の三人の姿があった。塔葉さんは剣を構え、義之の右手の平からはなぜか一筋の煙が立ち上っている。ドラマや映画なんかで発砲直後の拳銃の銃口から煙が出ていたりするが、ちょうどそんな感じだ。 「やっぱり、後をつけられてたんだな……」  どうりで追ってこないわけだ。 「お兄ちゃん、危ないから下がってて! 変身するよペポル!」 「あ、うん」  ここは素直に引き下がる事にした。まあ、邪魔にならないに越した事はあるまい。  ペポー、とのんきに鳴きながら智香子の携帯電話が宙に浮かび、光を帯び始めた。同時に義之と塔葉さんも動き出す。 「――数が多い。義之は弟さんを守りながら戦って。私と智香子ちゃんがこいつらをやる」 「あいよ」  同じようなやりとりを、数日前に聞いた事があるような気がした。  義之が僕の前に立ち、掌底で地面を叩く。数日前にも見た青い光が僕の周囲にドーム状に広がった。 「――義之兄ちゃん」 「……」  彼は答えない。 「“ウルトラミラクルダークアルティメットチェーンジ”! “変・身”!」  智香子と携帯電話が合唱し、どこをどう間違えたのか真っ黒な霧が智香子を包み始めた。やはり邪悪な変身だったのかと納得する間もなく、変身は完了し装いを改めた智香子が現れる。 「イーッ!」  変質者二号が後ろに弾き飛ばされた。塔葉さんの攻撃が命中したらしい。 「食らえっ! “パラレルマジカルミラクルビーム”!」  智香子がキャンディー棒を前方に突き出して叫んだ。先端からピンク色の光線が放射され、変質者八号と十六号と二十七号をまとめて弾き飛ばした。  それにしても、何かがおかしい。  智香子の妙なビームにしろ塔葉さんの剣にしろ、もろに食らっているはずの変質者たちは特に外傷を負う風もなく、ただ後ろにはじけ飛んで尻餅をつくだけだ。むしろ人数の差で押されているのは智香子たちの側で、入れ代わり立ち代わり蹴りやパンチを食らわせて離れてゆくヒットアンドアウェイ戦法に翻弄されているようだった。 「と、とうばちゃんっ、何かおかしくないですかっ?」  変質者五十六号の股間をキャンディー棒のアッパーカットで狙いながら、智香子が言った。果たしてその使い方はその武器として正しいのだろうか。こればかりは一撃を通すわけにはいかぬと変質者も判断したのか、身をかがめて両手を股間に添え、最悪の事態に備えた。 「喰らえっ――!」  横から塔葉さんが跳躍し、身をかがめる変質者五十六号に跳び斬りを食らわせる。あわや首はねかと思いきや、刃は滑るように空振りし、変質者はやはり後ろにはじけ飛ぶだけで外傷はない。 「やっぱり――こいつら、体に何かの細工を施されてる!」  背後から迫る変質者三十一号を剣で迎撃しながら、塔葉さんが叫んだ。 「さ、細工って、じゃあどうやって倒せば――」  智香子が二の句を継ごうとした時だった。  わらわらとうごめく変質者たちの奥。  グラウンドの端の端。  何かが、いた。 「そこまでだ悪党ども!」  よく通る声がグラウンドに響き渡った。 「イー?」  変質者たちが動きを止め、一斉に声のした方向を向く。今だやっちまえとばかりに智香子がキャンディー棒で変質者二十一号の頭を殴ったが、やはり数メートル弾け飛ぶだけでタンコブ一つ出来た様子はない。 「だ、誰だ!?」  叫んだのは義之である。 「名前は教えられないな」  その人間たちの姿が見えた。 「また妙なのが……。なんなんだ次から次へと」  独り言が漏れる。  乱入者の数は五人。きれいに横に並んでおり、五人がそれぞれ色違いの全身タイツ――のような服を身につけている。変質者と違うところは目も口もまったく露出していないところで、頭部にはサングラスのレンズのような色つきガラスがはめこまれ、外が見えるようになっていた。ボディーには肋骨のデザインの代わりに鋭角的な黒いラインが刻まれている。服の色はそれぞれ赤、黄、緑、青、ピンクの五色で、喋っているのは中央の赤色だけだ。 「良く聞け悪党ども! 貴様らは善良な市民の生活を脅かす悪だ! ゴミだ! 社会のクズだ! ゴミは掃除しなければならない! クズは払わねばならない! よって私たちは、今から貴様らを殲滅する!」  赤色が変質者たちを指差し、どちらが悪かわからないような長口上をノリノリで述べた。というかその理屈でいけば彼らはヤクザや犯罪者なんかも片っ端から殺害しなければならないことになるのだが、実行に移せば善良な市民の生活を脅かしたとして警察に捕まるのは恐らく彼らの方だろう。  大人しく赤色のセリフを聞いていた変質者たちもこれにはさすがに怒ったのか、イーイーと奇声を発しながら一斉にカラフル五人組に向かっていった。 「よっし、行くぞ! ブルー! グリーン! イエロー! ピンクってぐお」 「イーッ!」  怒り心頭の変質者七十四号のドロップキックが赤色の横っ面に命中し、彼はあっけなく倒れた。他の四人は無言のまま黙々と変質者たちを迎撃してゆく。徒手空拳だが中々に強力で、殴ったり突いたりするたびに変質者たちが本気で痛がるのがわかった。なぜか後ろに弾け飛んだりはせず、打撃のダメージがそのまま伝わっているようだった。  というか、あの赤色の声、どこかで聞いたことがあるような。 「なんなのかしら……、あの人たち」  塔葉さんがつぶやいた。恐らくこの場にいる全員が心の底からそう思っている事だろう。無論あの五人を除いて、だが。 「イ、イー!」  思案を巡らせている間にも四人は凄い勢いで変質者たちを倒していった。立っている変質者たちは徐々に減ってゆき、とうとう最後の一人――変質者九号が緑色の容赦ない目潰しの前に敗れ去った。 「イー……」  彼の最期の言葉だった。 「終わった、のか?」  義之が呟き、僕の周囲を覆っていた青い光が掻き消えた。 「ふっ、片付いたようだな……」  タイミングを計ったかのように赤色が立ち上がり、余裕綽々にしゃべって見せる。他の四人はそんな赤色に不満一つ漏らさず、素直に元の陣形に戻っていった。なんだかけなげだ。 「あ、あの、助けて頂いてありがとうございました!」  塔葉さんが頭を下げる。 「いやいや礼には及ばんよ。なあ、みんな?」  全員無視。  四人の心理が垣間見えた気がした。 「とっ、とにかく、我らが世界安全保障戦隊テンションタカインジャーがいる限り、市民の安全は保障されたも同然! 悪が栄えた試しはないのさ!」  はっはっはっは、と高笑いしてみせる赤色。というかテンション高いのは赤色だけだし風呂敷を世界規模まで広げられても迷惑なだけなのだが、どうにも赤色の声の正体が思い出せず引っかかるのでツッコミは控えておいた。 「んん、ところでまだ後ろの三人の礼を聞いていないような気がするのだが、気のせいかね?」  いちいちうっとうしい。  義之と智香子を見てみると、どうやら二人も僕と同じ疑問を抱いているらしかった。二人とも思い出せそうで思い出せないのか、眉間にしわを寄せている。  そう、どこかで聞いたことがあるのだ。それもそう遠くない昔に。  ……遠くない昔。 「――あ」  思い出した。 「あー! おもいだした!」  智香子も同時に思い出したらしい。義之もはっとしたような表情をしている。 「タク兄だ! お前タク兄だろ!」  義之が赤色を指差して叫んだ。  タク兄とはその本名を拓也といい、去年の大学入学と同時に家を離れて一人暮らしを始めた我が家の長男である。月に一度はかかってくる電話が最近途絶えたと思ったら、こんな事をして遊んでいたとは。予想外だ。なぜこの家の人間は、こうも僕の予想の遥か斜め上をゆく行動をしてくれるのか。  赤色は明らかに狼狽していた。 「な、何を言っているんだそんなわけないじゃないか義之。あ、しまった」  バカだ。このバカさ加減からしてもう間違いなく拓也だ。僕は確信した。 「嘘つけもう自白してるようなもんじゃねーか。タク兄が一浪して大学受かったときは母さんも父さんも泣いて喜んでたのに何やってんだよこんなところで。あれか、演劇かなんかの練習か。あの全身黒タイツも仕込みか。ったくこんなとこで遊んでる暇あったら勉強しろ勉強」 「そうだよ、お兄ちゃんの言うとおりだよお兄ちゃん!」  智香子は相変わらずややこしい。この光景、まさに拓也がまだ高校生だった頃のそれだ。懐かしく思う余裕などなく、この期に及んで赤色もとい拓也はまだ謎のヒーローを気取りたがっていた。 「だ、だから違うって。名前がわかったのはほら、あれだよ。テレパシー、そう! ヒーローテレパシー!」  なんだよヒーローテレパシーって。  一同、あきれ果ててものも言えなかった。 「……よ、よし、ブルー、グリーン、イエロー、ピンク。そろそろ帰るぞ! さらばだ善良な市民たち!」  拓也が僕たちに背を向けて走り出し、四人が歩いてそれに続く。こうして正義のヒーロー達は去っていった。徒歩で。  沈黙が訪れた。 「…………」 「…………」 「……あ、あのさ」  義之が口を開いた。 「なに? 義之兄ちゃん」  智香子は黙っている。塔葉さんも黙っている。 「お、俺達、その、別に、隠し事っていうか、お前を騙すつもりじゃなくてだな」  深刻な表情で言うので一瞬何のことかと思ったが、どうやら自分達の力のことを言っているらしい。そういえば彼らは、僕がゴリラとの戦闘を見ていたのを知らないんだったか。 「その、ほら、俺も、自分の力に気付いたのはさ、塔葉に会ってからで、そっから色々あって、智香子も同じようなやつだってことがわかって……、ほんとに、隠してたわけじゃないんだ。ただ……」  言いよどむ義之。僕は出来る限り優しく肩に手を置き、 「ばかだなぁ、義之兄ちゃんは」 「え……?」  義之が顔を上げる。驚くことに、かすかに涙ぐんでいた。  僕は薄く微笑んでみせ、 「そんな事、気にしなくて良いよ。どんな力を持ってたって、どんな事があったって、僕らは兄弟――家族じゃないか。僕は信じてるよ。義之兄ちゃんの事も、智香子の事も」 「ほ、本当に?」 「ほんとに」  一瞬の間があり、 「ううぇえぇぇぇ……お兄ちゃぁぁん」  後ろから智香子が抱きついてきた。 「こ、こら智香子。どうした急に」  腰の辺りがなんだか冷たい。どうやら、僕に顔をこすりつけたまま号泣しているらしかった。 「ああもうしょうがないな智香子は。義之兄ちゃん――」  前を向くと、あろう事か義之も号泣していた。 「ゔぅぅうぅぅ。お、おれっ、ほんとにっ、ほんとにっ」 「うわ。ど、どうしたんだよ義之兄ちゃんまで。泣くなってこんなところで」  腰で智香子が泣きじゃくる。 「ふぇえぇぇぇえぇ、おっ、お兄ちゃあぁぁん……、ふぇ、ずびー」  鼻をかむな。 ◇  そんなこんなで数分が経ち、二人がようやく泣き止んだ時だった。 「あ、あの。弟さん」 「なんでしょう」  塔葉さんだった。二人で面と向かって話すのはこれが初めてかもしれない。 「えっと、こんな事言うのも難なんですけど、今日の事と、私たちの力のこと、秘密にしておいて欲しいんです」  まあそれはそうか。  彼らも一般人に知られては困る事も、色々とあるのだろう。僕もそこらへんはわきまえているつもりだ。 「あ、はいわかりました。今日の事もあなたたちの事も、絶対に口にしません」  塔葉さんはほっとしたような顔を見せ、 「あ、ありがとうございます」  僕は微笑んで見せた。彼女も微笑み返してくれた。  少しの沈黙があり、 「えっと、僕からも一つお願いしていいですか?」 「あ、は、はい」  塔葉さんが、少し身構えたような表情を見せた。 「至らない兄ですけど、義之兄ちゃんのこと、よろしくお願いします」  軽く頭を下げる。  塔葉さんはあからさまに慌ててみせた。 「え、え? お願いしますって、え、いや、その、は、はい……」  顔を赤らめて小さくうなずく塔葉さん。この二人ならこの先上手くやっていけるだろう、多分。  振り返り、二人でなにやら感傷に浸っている智香子と義之に呼びかける。 「智香子、義之兄ちゃん。僕はここに残るから、三人で先に帰っててよ」 「えー? なんでー?」  智香子がすねたような声を出した。 「あ、そっか。お前待ち合わせでここ来てたんだもんな。じゃあ帰るか。智香子、塔葉」 「そっか、そういえばそうだったもんね。早めに帰ってきてねお兄ちゃん」 「うん、それじゃ」  義之と智香子が並んで歩き出し、塔葉さんもそれに続いた。本当にやれやれだ。最近色んなことが起こりすぎている。 「さて……、と」  元の待ち合わせ場所はグラウンドの中心だが、別にここでも問題はないだろう。僕は三人が完全に行ったのを確認し、口を開いた。 「そろそろ出てきたらどうだ。エミー」  一拍の沈黙があった。 「やはり、気付いていらっしゃったのですね」  艶やかな女の声。声の方を向くと、一人の女がそこに立っていた。栗色の長髪に、深い紫色の瞳、白い肌。体全体からどこか妖艶な雰囲気を放っていて、このご時勢に黒いボディーコンシャスを纏っている。 「……またその格好で来たのか」 「いっ、良いじゃないですか何着たって」  一歩間違えればただの変体女である。誰かに見られれば一緒にいる僕まで勘違いされてしまうかもしれない。  まあ、そんな事起こるわけがないのだけれど。 「で、見せたいものってもしかしてさっきのあれか?」 「ええ、そうですわ」  にやり、とエミーが笑った。 「あれはつい先日完成したばかりのものでしてね。クローン培養した戦闘員に新開発のスーツを着用させたものです」 「新開発のスーツ、ねぇ……」  グラウンドでのびている大量の変質者たちに目を移す。それにしてももう少しマシなデザインにはできなかったのだろうか。 「確かに大した防御能力だったけど、なんか途中から出てきた似たようなのに全滅させられてたぞ。お前も見てただろ?」  えぇ、とエミーがうなずいた。 「あれは想定外の出来事でした。しかしこのスーツも戦闘員もまだ開発途中。あれが何かはまだわかりませんが、改良の余地はまだたくさんありますわ」  ふと、拓也のアホ面が脳裏をよぎった。 「……そういえば、あの五人の中に僕の兄弟が一人いたんだ。今度あれがなんなのか問い詰めてみるよ」 「ありがとうございます」  深々と頭を下げるエミー。僕の兄弟があの中に居たということ自体には触れなかった。気を使っているのか、そうでないのか。 「それから、この前言った戦力増大の件。対策は出来たか?」 「現在、戦略学者たちに研究させています。その第一弾があの強化スーツだったのですけど――出鼻をくじかれる形になってしまいましたね」 「――まあ、確かにあの三人には効果があったな。あんなのが出てくるとは正直僕も予想だにしていなかった。対策を練らないとな」  ふと思う。  妹は小学生で、僕は中学生、真ん中の兄は高校生、一番上の兄は大学生だ。なんらかの能力が開花するのは思春期が多いと聞くが、我が家はてんでばらばらである。小学生と高校生と大学生が正義の味方で、中学生が黒幕か――なんとも言いようがない話だ。家に帰ったら両親が超能力に目覚めたりしてないだろうか。少し心配だ。 「それにしても、ここ数日で一気に七人も敵が増えるとはね。智香子の能力については以前から認識していたけど――僕らも少し気合いれなきゃな」 「――あ、あの。無礼を承知で申し上げますと」  エミーがおずおずと口を開いた。 「ん? なんだい、とりあえず言ってごらん」 「戦力の逐次投入、そろそろやめてみてはいかがでしょうか。魔獣も一度に五匹以上投入すれば、三人の戦闘能力を上回るというシュミレーション結果が出ています」 「まあ、そう言うなって」  確かに智香子や義之、それにあの五人をうまいこと分散させて集中的に叩けば力押しできない事もないが、それは少し味気ないし、時期が早いと思う。 「ストリンガーもあのゴリラも確かに損失は大きかったけど、まだまだ新戦力の開発も進められるし、人払いの範囲ももっと広められる。例の廃ビルの事件もあるし――僕らの目標はあくまで世界征服だろ? 急いては事をし損じる、ってね」  エミーは少し考えるようにうつむいていたが、やがて顔を上げて、僕に頭を下げた。 「……はい。出すぎた事を言って、申し訳ございません」  良いよ良いよ、と言ってやる。  つまるところ、僕にはまだ、本気で智香子や義之を潰そうなんて気はないのだ。  少なくとも、僕が彼らにとってただの兄であり弟であるうちは、彼らと家族でいるうちは、もう少しこのゆっくりとした、優しい時間に身をゆだねていたかった。  ほんの、少しの間だけ。  悪の組織のボスをやっていくのも、それなりに大変なのである。