古来、人は自然を畏れた。自らの力及ばぬ神の御業に。中でも──蝕──あるべき光を閉ざす仮初めの夜に、人々は言い知れぬ不吉を感じた。  昼と夜。規則正しく繰り返される悠久なる時の中の、刹那の不規則。生命に休息と安らぎを与える夜ならざる夜には、何かが起こる。有り得ざることが、常識となる。この世ならざるものが、跋扈する──そのようなことが、信じられてきた。  現代では天文学により、自然現象の一つとして認知されている皆既日食であるが、その神秘性は失われていない。古くから人々の心に不安を囁きかけては、いまだに心の奥に暗闇を作り出している。天照大神が丸い岩戸にお隠れあそばすことも、元を正せばこの皆既日食の不安を伝承化したものである。 「もっとも、無知なるがゆえの心の闇が生んだオカルトに過ぎないけどね」  ──と、望月朔太郎は語った。  望月(満月)に朔(新月)太郎とは、随分と人を小馬鹿にした名前だと思うが、彼は学校一の秀才であり、天文部の部長でもある。名は体を表していると言えるのだが、私はそこが気に入らない。安直すぎる。  そんな名前を名乗るなら、お前は漫画でも書いてろよと事ある毎に思うのだが、これを漏らした友人たちからは、一度も賛同を得たことがなかった。古い漫画家の名前ネタだよ、という軽い冗談も分からない、不出来な友人たちを持ったものだ。 「それで、君は行くのかい?」  望月朔太郎は、紙とインクの臭いが漂う天文部の狭い部室で私に問いかけた。眼鏡の奥の自信に溢れた瞳。私はこれが気に入らない。女子たちの間では、知的だ、クールだなどとすこぶる評判のよい男だが、私はこの眼に異質さを感じていた。  普段は衒学趣味を丸出しで、嫌味ったらしい文弱な男なのだが、時折、すべてを貫き通すような鋭い目付きをすることがあるのだ。それはまるで、獲物を狙う猛禽のような。  ──この男は何かを隠している。皆に嘘をついている。  私の直感がそう語る。私の本能がこの男の有様をそのまま受け入れることの危険を知らせる。  ──この男は普通ではない。  だが、私はそんな警戒心を相手に知らせるほど、愚かではない。 「行かないわけにいかないでしょうが──」  私はため息交じりで周囲を見渡した。あまり明るいとはいえない八畳ほどの部屋には、壁の両脇に本棚が並び、いくつもの天文に関する書物が揃えられている。部屋の隅には望遠鏡や、大きな地球儀があり、丸められた天体図がロッカー脇に立てかけられている。  部屋の中央には長方形の簡素なテーブルが二列、二つ並びに繋げて置かれており、その上にいくつもの本が雑多に広げられていて、それらを取り囲むように私を含めた五人の部員が座っていた。  私が視線を送ると、三つ子の才媛で知られる天文部の天堂三姉妹、未亜、未以、未宇が、あどけない表情で私をみつめ返してきた。 「──あんたが突拍子もないことをいいだすんだもの」  私は半ば諦めにも似た色を含ませて、彼女たちに苦笑いをしてみせた。  事の始まりは、望月が天文部の部長として当然とばかりに、今年、アフリカ北部からトルコ、南ロシアへかけて観測できる皆既日食を観に行くと言い出したことにある。普段、何を食べて、何を考えているのかもよく分からないこの男は、私たちにそう言い放った後、続けて宣告したのだ。後事は託す、と。  この「後事は託す」が問題であった。  たかが自然現象の観測に行くだけで、後事も何もないだろうと思うのだが、よりにもよってその後継者に私を選んだのである。ただ単に部員が少なくて、小うるさい顧問もいないという理由で天文部に入った、幽霊部員である私を。  元々、私は天文なんぞに興味がない。というよりも、夜空をみても北極星の位置は分からないし、オリオン座と北斗七星の違いも分からない。もっと言えば、星座占いにすら、なんの興味も持っていない。こんな不真面目極まりなくて、向上心のない私を後継者に任命するとは、どういう了見なのだ。 「どうして私が?」と問う暇もなく、望月は真っ直ぐに私に向かってこう告げた。「君しかいないんだ」と。  この男の瞳は苦手である。穏やかな光の中にある力強さ。しかし、どこか作り物であるかのような輝き。この瞳にみつめられると、少女たちは魅入られたように従順になってしまう。嫌悪を覚える私ですら、この瞳に迫られると一瞬呼吸が止まる。正に魔力だ。  その魔眼に屈したわけではないが、誰が部長の後継者たるかを考えるため、改めて天文部の面子を思いやった。しかし、どんなに記憶を穿り返しても、私と部長を除くと、部員は私より年少の天堂三姉妹しか残っていない。果たして天堂三姉妹の誰かに、そんな重責を任せられるのだろうか──いや、まともに考えれば、三人とも真面目で頭が良く、私よりも遥かに安心して任せるに足る人物なのだが、そのまま任せてしまってもいいのだろうか。思えば、幽霊部員の私が部室に顔を出すようになったのは、この愛らしい三姉妹がいるからだ。  三つ子が声を揃えて「先輩」と呼んでくれた日には、三人ともどこかへ連れ去って、私だけのものにしてしまおうかという欲望に駆られたものである。  ──ここは、三姉妹を独占するチャンスなんじゃないか。  私の下腹部辺りで、黒い炎がチリチリと燃え出すのを感じた。放課後の密室。この狭い部屋の中で三姉妹と一緒に過ごす。そして部屋の支配者は他ならぬこの私──私が三姉妹の時間を合法的に支配できるのだ。  ──支配者。  素晴らしい。ああ、なんという甘美な響き。私は勢いで「任せて」と言いそうになってしまった。 ・・・と、ここまでです。