「おじいちゃんは何色がすきなの?」  五歳になったばかりの娘が突然祖父に訊ねた。 「はあー? なんだってぇ?」  しばしの沈黙の後で顔をしかめて聞き返したのは、全く脈絡がなかったからだけではないとだろう。 七十を間近に控えた老人にとって、まだ舌足らずな五歳児の言葉を聞き取るのは想像以上に難しい。 ましてテレビを見ていたところへ後ろから話しかけたのだ。袖をひっぱたとはいえ、聞き取れなかったのも無理はない。  しかし、娘はそんな事情を理解できるはずもない。頬を膨らませ、さらにオクターブ高い大きな声で繰り返す。 「おじーちゃんは何色が好きなの!?」  キンキンと室内に響く。つい先程幼稚園から帰って来たばかりだというのに、一体何故そんなに元気なのだ。 「色か? 色は青。御祖父ちゃんは青が好きだ」  質問を了解した祖父は、ほとんど考える間をおかずに答えた。孫と話をするのはやはり楽しいのだろう。 聞き返した瞬間のしかめっ面も、いまや緩みっぱなしでだらしがない。絵に描いたようなジジバカぶりに、 私は少量ながら呆れを覚える。三十年前なら決して見せなかった顔だ。  人間はやはり孫と可愛いものに弱いのだろう。客観的に見ても可愛いと形容できる孫なら、なおさらである。 「おじいちゃんは青が好き?」 「うんうん、御祖父ちゃんは青が好き」 「そっかー。よし青だね!」  小首を傾げて確認すると、娘は満面に悪戯な笑みを浮かべて部屋を出て行った。何度も何度も「青が好きー!」と呟きながらである。  訳のわからないまま取り残された祖父は、少し寂しげな表情を浮かべて中空に視線を彷徨わせる。 次いで微かに溜息をつき、再度テレビに意識を戻した。その背にはどこか哀愁が漂っている。  数分の後。必要以上に軽やかな足音を立てて娘は戻ってきた。やけにテンションが高い。 依然として顔には笑みが溢れている。  何故そんなにテンションが高いのか。  疑問に思って注意深く見ると、体の後ろに隠した手の中に何かを持っていることに気が付いた。 一体何を持っているのだろう?  娘はやけにもったいぶった様子で祖父に近づいていく。  テレビに見入っている祖父。まだ娘が戻ってきたことには気が付いていない。 「おじーちゃん」  袖を強めに引っ張りながら、娘は猫なで声で祖父を呼んだ。先程のやりとりで学んだのだろう。 なかなか賢い子だ。  祖父が振り返る。孫が戻ってきたことを認識するやいないや、再び一瞬のうちに目尻が下がった。 もはや条件反射の域である。 「おお、どうした?」 「あのねー。うんとねー」  何やらはにかみながら、娘は身体をくねらせる。その様は奇妙に艶かしく、十数年後の悪女ぶりを想像させた。 「ハイ! これあげる!」  突然そう叫ぶと、娘は後ろ手に隠し持っていたものを祖父に向って差し出した。 「お? 何だいこれは?」 「あのねー、今日皆で作ったの! お花!」  娘が差し出した物は、切り取った画用紙とトイレットペーパーの芯で作った歪な形の花だった。  色は青。深い、深い、青の花びら。 「あら? それ、どうしたんですか?」  夕飯の買い物から帰って来た祖母が、青い造花を指して訊ねた。 「葵がくれたんだ」  さほど大きな声ではなかったにも関わらず、祖父は聞き返す事もなく答えた。 長年連れ添った夫婦だけに、相手への問い掛け方も心得たものである。  祖父の自慢げな言い草。それに対して祖母は悪戯な笑みを浮かべる。その笑い方は、たしかな血の繋がりを感じさせた。 「藍色はたしか、嫌いな色じゃありませんでしたか?」  そうなのだ。この老翁にとって藍色、つまりブルーは全ての色の中で最も嫌いな色であるはずなのだ。 彼が好むのは、同じ青でも、緑色の方なのだ。  事実、私が建てられた時からずっと、彼の寝室には常に緑のカーテンが選ばれている。 「……青は好きだ。好きになった」  苦笑する祖母を脇に、祖父は孫から貰った青い造花を優しく愛でる。  七十年近い好き嫌いの歴史も、孫の可愛さにはどうやら勝ち目がないようだ。   『家による住民観察記』終 「常識だろ?」  そう言って、名前もはっきりしないクラスメイトが下品に口角を上げる。 この休み時間にこいつがこの台詞を使ったは、一体何度目だろう。わからない。少なくとも片手で足りないことはたしかだ。  そしてその度、他の奴等は追随する。「だよねー」と「それは知っとこうよー」だ。  まるでパブロフの犬。台詞はたんなるスイッチだ。  完全な予定調和が今日も繰り返されている。いつもの面子がいつもの場所にいつものように集まって、 いつものようにいつもの会話を繰り返す。  其処に何の疑問も持たない狗が「常識」だと? 笑わせるなよ。  わかりやすく付いた俺の溜息は、クラスメイトの笑い声に掻き消される。ただの溜息に日常を穿つほどの力などない。 しかし、それがわかっていながらも、腹が立つのは止められない。本を読んでいる横での馬鹿笑いは、それほどに喧しい。  苛立ちを押さろ。本に没頭せよ。集中すればどうということもない。  自身にそう言い聞かせて、紙面に目を這わせる。しかし物語はまだ序盤に過ぎず、起伏の波は低いままだ。 それでも俺は、何とかページを捲り続けた。  物語中では老人がラジオを修理している。機械好きの孫の為に、知人から譲って貰った古いラジオだ。 孫の誕生日を数日後に控え、老人は懸命にねじを回す。貧しい生活の中、それでも孫の笑顔を引き出さんと配線を繋ぐ。 その姿は、ささくれた俺の胸を打つ。  しかし老人が小さな工具を取り落とした瞬間、物語は切断されることになった。文字通り、真っ二つに。  ふざけていたクラスメイトの内の一人が不意にバランスを崩し、慌てて俺が読んでいた本に手を伸ばしたのだ。 そして結果、物語は引き裂かれることになった。 「あ……悪ぃ」  バツが悪そうに、クラスメイトが呟く。しかしその表情には、どこか余裕がある。  ――たかが本だろ?  そんな余裕。  瞬間、目の前が真っ赤になった。握った拳に爪が食い込む。痛い。当り前だ。 「ちょ、悪かったって」  俺の様子を見て焦ったのか、クラスメイトから余裕が消えた。他の奴らも俺を諌めようと、声をかけてくる。 「そんな怒るなって」 「そうだよ。わざとじゃないんだし」  それは家畜の鳴き声に似ていた。何だ、こいつ等はやっぱ狗か。  そう思うと、沸騰していた血は急激に冷えていった。動物相手に怒っても意味がない。 「なあ、お前ら……」  冷めた声で呼びかける。  狗どもは身構え、少し後ずさった。怯えているのか?  「人が本を読んでる時は近くで騒ぐなよ」  ゆっくりと、一人一人の目を覗き込みながら言う。 「常識だろ?」  追随は、なかった。 終