――これはいかんな……。 旅装束に身を固めた男が境内に入った時、社殿に続く参道を巫女が掃き清めていた。薄暗がりの中に小袖と緋袴のみがぼんやりと見える。既に日は落ちていたが、暗がりの中に晩秋の空だけが闇に落ちず、雲は朱を刷いたように紅く染まっている。底抜けに深みを増す青との取り合わせは美しいというよりなお、禍々しかった。境内の裏にそびえる山の頂にはまだ日が差している。紅葉に染まる山は、夕日の中に火でも放れたかのように輝いていた。  男はこの境内の裏にある、鎮守の中に伸びる古道を使うつもりで神社を訪れたのだった。死罪を逃れての脱藩である。国許から抜ける街道と関所は既に抑えられているであろうことは、誰にでもわかることであった。しかし、古道ならば先をふさがれていることはないと思われた。古来より修験者などが使う道である。権勢の及ばぬ領域であった。  巫女に見られたのは間違いなかった。微かに逡巡したが、柄から手を離す。追われているとはいえ、神前を穢すのは躊躇われた。  ――賽銭を入れて立ち去れば怪しまれまい。 見られた以上、裏に回れば怪しまれることは間違いなかった。まして、神社から入って消えるわけにもいかない。ごく平静を装い、参道を社殿に向けて歩き始めた。  巫女は軽く頭を左右に振りながら掃き清めていたが、男に気付くと目を合わせずに軽く頭を下げる礼をした。男が返礼をし脇を抜けようとしたときに、まだ巫女は頭を上げない。男が眼前を通り過ぎようとした時、ふと巫女が頭を上げた。男が何か話しかけられたような所作で真横の巫女に顔を向け、そのまま無造作に前にのめり落ちた。  顔を合わせたとき男の胸を刺した巫女の懐剣は、既に胸元の鞘に手繰りこまれている。神前を穢さぬよう、刃の上にも血を残さないのが作法であった。巫女は最初から誰もいなかったかのように、闇の気配が濃くなる境内の中に歩み去った。 =============== 隠し剣鬼の爪。みこさん版。改訂版β1.1