たとえ宇宙が反転してもインドア一貫を揺るぎないものとしてきた僕が いまとなって花見などという快活で爽快なイベントに興ずることになろう とは思いもしなかった。僕はいま為すすべもなく君の隣で桜の並木道を歩 いている。良しも悪しも強制的に連れられてくることは決して気分の良い ものじゃない。このまま何も抗わずにいたら男が腐ると、半ばやけくそに 反発を試みる。 「花見なんて柄じゃないよ」 「なにそれ」  思った通りの反応だ。鉛のように重く鈍い声。確実に気分を害している。 「面白くない」 「花見に何を期待してるの?」 「何も期待していない」 「だったら余計な口は挟まないように。期待してないものにいったいどん な欠点があるというの。どんな汚点があるというの。桜は何も悪くない」  あからさまな言葉のトゲが僕の膨らんだ興味心を刺激してしぼませる。 どうやら本気で怒らせてしまったらしい。悪いのはお前だ、そう言おうと したがどうせまた難くせつけられるのは目に見えている。ここはひとまず 一時休戦としよう。うむ、名案だ。 「まあいい。歩こう」  そんな僕の小言を君は見向きもせず、似合わない微笑みにきらきらとう るわしい瞳で並び立つ桜を見上げている。当の桜は満開ではないようだ。 ところどころ新緑が出芽し、時にはすべての花びらが散り新芽だけが羽を 伸ばしている木々もあった。  それから十数分、僕たちは歩き続けた。特に会話もなく、無邪気に首を くるくる回す君をただ僕はずっと横目でみつめているだけだった。それが 不思議に心地よかった。歩いているだけでとめどなく注がれていく幸せに 満たされていった。きっと君も同じ気持ちだろう、そう確信した。言葉の 必要ない関係、一瞬悟ったように君と僕との間柄を神聖化してみたが、僕 は彼女の行動をひとつして理解不能であり、毎回ことあるごとにその不可 解さに悩まされてばかりなことに気づき、やはりそんなに立派なもんでは ないと考えを改めた。猿と犬も年中いがみあっているわけじゃないし、さ きほど休戦条約を結んだばかりじゃないか。それにしても、彼女のひさし ぶりの笑顔はなんとも言いがたいほど美しかった。かわいいといった方が 近いかもしれない。まだ幼さから抜け切れない丸い輪郭。不健康なほど青 白い顔に真っ赤な小さい唇を震わせて精一杯に笑っていた。悪くない、そ う思った。たまには花見も悪くない。  鼻に冷たい水滴が当たった。「雨だ」「うん、雨」辺りの見物人も気づ いたらしく困惑した表情を浮かべ空を仰いでいる。次第に騒がしくなって きた。なかなかの大雨になりそうだ。肝心な隣はというと、相変わらずマ イペースに瞳を輝かせながら両手を広げ舞い散る桜をつかもうとはしゃい でいた。 「帰ろう」僕は言う。 「なんで?」 「雨だから。濡れるから。寒い。それに風邪引く」 「だったら帰ればいい。バイバイ」 「君を心配して言ってる。周りのひとも帰ってるじゃないか」 「周りのひと? 他人に合わせるのはO型だけでいい。あいにくわたしは B型でした。残念」  不満そうに言う。君は徒歩のスピードを少し上げ、スタスタと僕から離 れようとする。そうだ、僕は知っている。あまのじゃくな君がそういった 俗な話を持ち出すとき、決まって本心とは逆さの嘘をつく。おそらく君は 僕とこのまま歩くことを強く望んでいるだろう。―勝った!―心の中でガ ッツポーズをした。僕は勝ち誇ったような笑みを浮かべ小走りで君に追い つき、照れくさそうに君に言う。 「わかったよ。俺も残るよ」 「俺」 「そう、俺も」 「ねえ、あなたが照れてるときって大抵俺になるよね」  血の気が引く思いをした。すべてが見抜かされている。 「そんなことはない」 「どうでもいい」  必死の抵抗も軽く流される始末。逃げ道はない。もどかしさでむずむず してくる。まったく、気分が悪い。 「手をつなごう」彼女は言った。 「え?」 「手をつなぐの」君は僕の片手を強引に引っ張る。「相変わらず冷たいね」 珍しく目を合わせてきた。僕は軽くうなずいた。 「逆に、君の手は暖かい」  夕立は思っていたより穏やかだった。