お題「煙草」  私は煙草が大嫌いだ。吸うなどとはとんでもない。吸っている人間に近づくことも苦手だ。だからこそ、私は煙草の臭いには敏感だった。  普段から煙草を吸っている人間には臭いが染み付いている。服にも、部屋にも、体にも。その人間のいる場所にはいつも臭いが付き纏う。そういうものなのだ。  その男はいわゆるヘビースモーカーだった。一日にマイルドセブンを五箱は吸っていた。私はそれが嫌だった。 「お願いだから、ベランダで吸ってくれない? 部屋に臭いが染み付くんだけど」  そういって、私は部屋から男を追い出した。いつものことである。男は恨めしそうな顔をしながら、ベランダへと出て行った。  私が部屋からベランダを眺めると、男は寒そうに肩を狭めていた。夜の帳が冷気のコートを纏っておりる中、いわゆるホタル族をやっている。男がくしゃみをした。  馬鹿らしい。なぜ、そこまでして煙草など、体に悪いものを吸いたがるのだろう。そう思わずにはいられなかった。しかし、男は決まって私に言うのだった。 「俺は肺癌じゃ死なないよ。俺が死ぬのは心臓の病気さ」  何度も飽きるほどに聞かされた。馬鹿馬鹿しい。なぜ、死因が決まっているのか。私の目から見れば、どうみてもその男は心臓よりも肺の方を病んでいる。ときどき、息が続かない、苦しいと訴えるときは、間違いなく肺にたまったニコチンのせいだろうと思った。  ──しかし、そうではなかった。  男はその予言どおり、仕事中に心臓の病で死んでいった。死因は不整脈による心不全である。彼は先天的に心臓を四つの部屋に分ける弁が機能しない病を持っており、血液が逆流してしまったのだという。  私はそれが信じられなかった。普段の男は憎たらしいほどに行動的だった。誰よりも先に動き、誰よりも働く。心臓の病気持ちだなんて、でまかせだと思っていた。けど、それは真実であった。  男は自らの体に架せられたハンディキャップにあらがうべく、平然を装っていたのだろうか。思えば、激しい運動のたびに息を切らせて苦しんでいた。それは煙草のせいではない。男の心臓の病によるものだったのだ。  男が部屋からいなくなって一年が過ぎた。一人になって広く感じていた部屋も、今ではなれたものだ。もう、煙草の臭いはしない。私の部屋はとても健康的な空間となっている。  それなのに、あれだけ嫌いだった煙草の臭いがなぜか恋しかった。もう嗅ぐことはないと考えるだけで寂しかった。  ふと、私はベランダを眺めた。すると、いるはずのない男の姿が瞳に映った。男は寒そうな顔をして、立ち上る煙を燻らせる。 「本当に馬鹿な男……」  私がつぶやくと、男は振り返った。「何か言った?」と表情で語っている。私はその姿をみて、鼻の辺りがぐずついたのを感じた。 「……本当に馬鹿ね。ほら、寒いんでしょ。中に入りなさいよ」  私はずっと男に言えなかった言葉を目の前の幻に告げた。すると幻はにっこりと私に微笑んで、煙と共に消えていった。  こんなことなら、吸いたいだけ吸わせてあげればよかった。そう思いながら、私は男が残したマイルドセブンの箱を開けた。男が使っていたライターで、取り出した煙草に火をつける。男があれだけ好きだった煙草とは、どんな味なのだろうか。私はゆっくりと口付けた。  ──煙が温かい。と思ったその途端。 「……ゴホゴホ」  私の咽喉は、私の肺は抗議の音を上げた。  味わうなんてとんでもない。やっぱり私は……煙草が嫌いだ。改めて、そう思った。  私の両目からこぼれる涙は、煙が染みたからにすぎない。誰が、何と言おうと──