I’ЯA武勇伝@ 〜The lord of major〜 地雷2  ゴオォーと車輪が悲鳴を上げて、黒きリムジンは自宅を出た。 「社長、本日の予定は9時15分から○○株式会社取締役、△△様と本社にて会合。10時5分から□□社にてSWAPの新曲打ち合わせ、10時55分から──」  俺の隣にいるキリッとした目つきの秘書が、分刻みのスケジュールを淡々と述べる。  どうせ聞かなくてもいいことだ。ポケットから1mgのタバコを取り、銀製の重たいライターで火をつける。 「──が26時45分より。本日の予定は以上です」 「仕事らしい仕事をするならいいが、深夜までパーティーに付き合うのはうんざりだな」  ふぅーっと紫煙を吐き捨てて、不機嫌さを全面に出して愚痴る。  今年で32歳。思えば早すぎる出世だった。  天才音楽プロデューサー! 手がけた曲はことごとくミリオンヒット! 年収は○○億を下らない!──と肩書きだけは一流になった。しかし一方で、俺は何か大切なものを失った気もしていた。  閉塞した暗いリムジンに載せられ、お決まりの挨拶回りに奔走し、仕事なる仕事も形骸化、そしてほとんど寝ることなく次の朝を迎える。  うんざりだった。数年来ずっと我慢してきたが、こんな境遇は望んでいない。何もかも、情熱を注いできた音楽さえも、今すぐ捨て去りたい気分だった。 「社長、ご気分が優れない様子ですが…?」  そう言われて、俺は秘書の方へゆっくりと視線を流す。  気分が優れない?  ああそうさ。わかってるじゃないか。 「お前は──」  俺は一瞬、秘書に殴りかかりそうになった。何もかも見通したような一言が気に障った。  ふうっ、と溜め息をついて衝動を抑え、新しいタバコを咥えて火をつける。 「──まずは水、次は薬、最後に…病院か? いつも同じ事を言うよな」 「滅相もございません。私はただ、社長のお身体のことを」 「ふん…」  秘書─中山香理は、感情のないロボットのように当たり障りなく応える。  漆黒の長髪とスレンダーな痩躯が麗らかな美人だ──が、俺は好感など一切抱くことはない。  彼女が俺の秘書である理由はたった一つ。俺にあてがわれる激務についていけること、それだけだった。 「ふぅーっ…」  再び苦くて白い煙を吐くと、とりとめのない想いというか、何ともいえない厭世観に囚われた。  三十路を迎えたのに、この絶望的な気分は何だ。隣に居るような空気の読めない女のために音楽界で生きているのか。  違う、断じて違う。俺は音楽界を変えるために…新世界に相応しい楽曲を生み出すために志したのだ。そして新しい時代は既に完成をみている。自分──牙藤竜二という存在は、もう現代には不要なのだ。  そうだ。俺は自由になろう。全てを捨てて隠居し、未来のために尽くそう。  そうと決まれば、こんな車に用はない。会社がどうなろうと知ったことか。 「中山、今は…渋谷か。この近くにライブハウスはあったか?」 「私は存じませんが、いくつかは営業しているかと」 「そうか。今日の予定は全てキャンセルしろ」  俺は悪気なくそう言って、運転手に無理矢理停車を命じる。 「しゃ、社長?」 「得意先の連中に言っとけ。テメェらの話に付き合うなんてクソ食らえってな」  素早くリムジンから降り、逃げるように早足で人込みの中に紛れていく。 「ま、待って下さい! すぐに会合が…きゃっ」  必死に追う中山が人波にもみくちゃにされるのを、俺は遠目ながらに笑って眺めた。  日頃から工作機械のように動いてきた女が、愉快にも慌てふためいている。社長、社長と呼びとめ叫ぶ声も、しばらく歩くうちに聞こえなくなった。  さて、行こうか。どこぞのライブハウスヘ。  今日だけでも、何年かぶりの自由を手にしたのだから──  適当なライブハウスを探し、そこで1日を過ごす。ちょっと下手な奴から意外な玄人まで、様々なミュージシャンの曲を堪能し、自らの励みにする。  俺が無用な肩書きを手にする前の、下積み時代の大切な趣味。否──生き甲斐の1つだったと言ってもいい。 「いらっしゃーい! どうだいあんた、ピッチピチの新人バンド! 聞いてかないと損だよ損!」 「1枚もらおうか」  食べ過ぎで丸々と膨らんだ客寄せに、シワのない新札の福沢諭吉を1枚手渡す。体躯は醜いものだが、その笑顔はどこか心癒されるものがあった。 「おお? 珍しい人が来るもんだ。あいにく釣銭が小銭になっちまうが」 「それでいい」  客寄せはずぼらにも自分のポケットから、くしゃくしゃになった千円札5枚と100円硬貨12枚を俺に渡す。満面の笑みで、青春に満ち溢れた表情で、白黒刷りのチケットをそっと添える。  俺にはできない表情だ。これだけでも、今日の仕事をキャンセルした価値はある。 「ん? あんた、どこかで会ったかなぁ?」  どこかで会ったも何も、一度くらいは見たことがあるんじゃないか。テレビとかで。  地位を捨てるというのは中々難しいものだ。 「昔のよしみでね、久しぶりなんだ。もしかしたら知ってる奴がいるかもしれない」 「んーそぉかぁ。あんたみたいな立派な身なり、久しぶりに見たよ。下へどうぞ」  朗らかなる笑い声を加えて、電飾に彩られたシックな地下室に案内された。  薄暗くカビて、ゴミもそこら中に散らばっているライブハウス。お世辞にも居心地のいい場所ではない──が、今の俺にとっては天国のような場所だ。同じ薄暗い場所でも、仕事で乗るリムジンの中とは天と地ほどの差がある。 「一名様ぁー。あ、適当なとこ座ってくださいな」  チケットを受付の女に渡し、適当なパイプ椅子に腰掛ける。辺りを見まわせば、やはり朝ということもあって人はまばらである。  売り子らしき別の女が、飲み物の注文にやってきた。 「ドリンクいかがですかぁー」 「そうだな…ウーロン茶を」 「ハイもありますよー」 「夜のお楽しみにしておくよ」 「そうですか、あははは」  女は何か面白そうに笑っていた。  そうこうしているうちに、最初のバンドが小さな壇上に立つ。  顔中にピアスを開け、髪を反り立たせた若い男である。彼はマイクをゆっくり握り、開演のスピーチを始める。 「えー。本日はどうも、ご来店いただきましてどうもです。えー、今日はね。新人バンドが四つ! 3時間ごとにね。緊張してるかもしれないけど、暖かく応援してあげてくださいっ」  そう言って若者は、ヴォーンと音を立ててギターをかき鳴らす。  もちろん、暖かく応援するさ。  日本語はあまり上手くないが、音楽の世界で生きる者としては相応な心構えだった。 「Let's go Beat go!」  ドンドンドンドンドンドンドンドン。  小気味よいドラムスのテンポと、芯から響くギターのサウンド、腹をかっさばくベースの振幅。そして情熱的なボーカルの叫び。  十数分ほど続く演奏の中で、俺は渇きを潤すがごとく音楽を求めた。彼らの演奏は決して上手なものではない。だが、彼らの心…ハートを感じることはできる。それだけで十分だった。  そして公演の終了とともに、拍手を送り──次のバンドが挨拶をして、自らの魂を解き放つ。これが絶え間なく続いていくのだ。  目玉の新人バンドは、時に失敗もあり、時に驚きの演奏を見せ、いずれにせよ俺の精神を十分に愉しませた。  時計を見ることもなく、飲み物もいつしか酒に変わり、一人またひとりと観客は増えてゆく。 「えー次が、本日の最後のバンドになりまぁーす」  下に降りてきた客寄せの男が言うと、皆が『えぇー』と残念そうに声を出す。  俺も声こそ出さなかったが、これで自由な1日も終わりかと思うと、とてもやるせなくなった。 「新人バンドォー! I’ЯAです!どうぞ拍手ー!」  全員が驚きと期待を込めて、トリを飾る新人バンドに拍手を送る。新人が最後の演奏、というのもそうそうあることではない。皆の期待が視線となって注がれる。  壇上に登ったのは、3人のうら若き少女たちであった。 「えー、けほっけほっ」  マイクを握ったシャギーの少女が、いきなり苦しそうに咳払いをする。風邪でもひいているのか。 「あ…すみません。ええと、今回はこちらのご好意に預かりまして、私たちI’ЯAが演奏させて頂くことになりました。どうぞ、よろしくお願いします」  場違いとさえ錯覚する丁寧な物腰で挨拶し、少女はぺこっと礼をしてDAMAHAの電子ピアノをせっせと奥から運び出す。  露出度の高いポニー・テールの少女はギターを手に。  幼さの残るショートヘアーの少女はドラムスに乗り、くるくるとスティックを廻した。  そして、3人は静かに呼吸を整えて──  トットットットットトットッ。トットットットットトットッ、トッ。  ──寒空響く 明日を踏む Uh....     後悔しても 明日を往く Uh....     星空の下で歩いてゆく 心はいつでも暇(いとま)で     ただ身体だけ こうして生きている─     HI KA RIを 殺めて逃げている刻     I KA NI MO 無実と踊っているのに     都市(みやこ)に疾る The Tomorrow Sky …  ──愛を捧げた 人を踏む Uh....     懺悔をしても 明日に逝く Uh....     あなたのそばで沈んでゆく 身体はいつでも暇(いとま)で     なぜ私だけ こうして生きている─     I KA RIを 抑えて逃げている刻     KANA SI MIを 忘れられずにいるのに     都市(みやこ)に浮かぶ The Tomorrow Sky …  間奏を聞いているあいだ、俺はただただ呆然として、開いた口が乾くのも忘れて、その精緻な演奏の虜になっていた。  ドラムスの腕は滑らかに走り、完璧なテンポを作る。一切の乱れも狂いもないようで、ボーカル・ギターのわずかなアドリブを決して逃さない。叩く以上のことができるドラムスを、こんな所で見るとは。  ギターの演奏も最上級だ。まるで3人が完全に音楽を共有しているかのような──そう、『乱れのない乱れ』だ。フラクタル模様がいくら拡大しても同じ模様を作るがごとく、完璧なる一体感を演出しているのがこのギターだ。  聴くだけで鳥肌が立ち、いてもたってもいられない気分になる。何もかもが最高で、俺の身体が邪魔なくらいだ。  そして──先ほど挨拶をしたシャギーの少女。ボーカルを担当する彼女の素晴らしさときたら──  ──明日へと繋ぐ 道を踏む Uh....     愛を求めて 明日に行く Uh....     無常にも過ぎてゆく 時間はいつでも暇(いとま)で     でも心だけ こうして生きている─     KI BO Uを 無くして逃げている刻     SO RE DEも あなたを待っているのよ     HI TO MIを 見つめてキスをする刻     WATA SI NIも 愛の意味が知れたよ     都市(みやこ)に浮かぶ The Tomorrow Sky …  ──都市(みやこ)に浮かぶ The Tomorrow Sky ………  …終わった。  楽奏が終了した後、ライブハウスはしばらくの間静寂に包まれた。言葉は要らない。それほどまでに、彼女たちの演奏は素晴らしかったのである。  端を開いたのは、他ならぬ俺自身だった。 「ブラボー」  一声と共にパチ、パチ…と拍手を送ると、じきに会場中が盛大な拍音に包まれた。  口笛や歓声が上がり、皆が皆、I’ЯAのメンバーに惜しみない賛辞を送る。3人とも最初は戸惑っていたが、じきに満面の笑みを浮かべて礼をした。 「ありがとうございます」  ボーカルの少女は最後まで丁寧に言葉を紡ぎ、楽屋の奥へと去っていった。  そして俺は、拍手の嵐に包まれる中で一人立ち、朝にチケットを買った客寄せ──どうやら店長のようだ──に話し掛ける。 「I’ЯAっていうのか、あの子達は」 「おう、朝の人か! いやあ、素晴らしかったよ本当に」 「話を折るようで悪いが、俺はこういう人間でね」  懐から名刺を渡すと、店長は驚愕の表情を見せる。 「彼女たちと話したいんだが、いいかな?」 「も…もちろんですとも! いやあ、偶然ってのもあるもんだ…」  店長は嬉しいような驚いたようなくしゃくしゃな顔をして、俺を裏口の方へと案内してくれた。 「あーっ、緊張したぁ…」 「サキんぼは気楽でいいでしょっ。ミキなんかミスりそうでミスりそうで怖かったんだからッ」 「何それ! あたしの方が楽だって言ってるぅ?」 「まあまあ。今日はみなさん、よくできたじゃないですかー」  路地裏で歩きながら話す3人を、俺は不審者のように後をつけた。  理由は言うまでもない。今日のこの機会に、確実に得なくてはいけないものだからだ。  しかし、俺のこの勇気のなさはどうにかならんものか…。あれほどの演奏を聞いていただけに、話し掛けようとすると緊張して躊躇ってしまう。 「すごいのは…ユカリ姉ちゃんだよ! 声綺麗だったし!」 「そうね、ユカリがいたから…」 「ほえ? そうですか?」  ミキと名乗るドラムスのショートヘアーと、サキんぼと呼ばれたギターのポニーテール──今は結びを解いて、ロングヘアーである──が、俺と同じく揃ってボーカルのユカリを称賛した。  彼女は3人の中でも、特に素晴らしい才能があるようだった。少し仲の悪そうな2人の間にいて、代表として話をした辺り、I’ЯAのリーダー的存在であることは疑いない。 「でも私、サキちゃんみたいにギターはできないし、ミキみたいにドラムもできないですよ?」 「そ…そういう話ぃ? 今日の歌だって、ユカリが全部作ったのに」  なに、それはもっと驚きだ。  ユカリの電子ピアノの弾き方は信じられないもので、ボーカルとしても一流の声質だったのだが、それでいて作曲の才能もあるというのか。 「それもみんな、サキちゃんとミキのおかげじゃないですかぁ。いっぱいヒントをもらいましたよ」 「うーん、何というか…そういう話じゃなくて」 「サキっちょもいい加減、お姉ちゃんがこうだってわかってるでしょっ。それより飲みにいこうよ! ぱーっと!」  む、これはまずい。さすがに飲み会の席上で声を掛けるわけにはいかない。  俺は機会を逃すまいと、思いきって話かけてみる。 「ちょっと君たち、いいかな?」 「!」  3人はこちらに向き直り、ミキとサキが明らかに怪しむ目で俺を見る。  懐から名刺を出そうとすると、ミキがいきなりあらぬことを大声で叫びだした。 「きゃーっ!チカンよ!チカーンッッ!」 「まて、ちが…。俺は…」 「夜道で女を襲うなんてっ! 許さないわッ!」  サキはギターの入ったケースを振りかぶり、恐ろしい剣幕で戦闘態勢を…。  まさか…こんなことに…。 「あら…どうしましたか? みなさん」 「成敗ー!」 「まッ……」  グシャッッ  ユカリに助けを求めようとしたところで、俺はギターで殴られ悶絶した。  白くぼやける視界の外で、ミキの足が顔面に命中しているのが見えた…がすぐに意識が無くなった。 「ホントにね、気をつけてくださいよ。今は夜の事件多いンだから」  警察官は一通り事情聴取を終えた上で、俺の手錠を外した。  顔はボコボコに膨れ上がり、全身が痛みで軋んでいる。新調したスーツはホコリまみれだ。気絶している間にだいぶやられたらしい。 「あの…本当に、申し訳ありませんでした…」  隣にいたユカリが、本当に申し訳なさそうに謝罪する。  近くで見るとよくできた女性だ。母性の塊というか…中山とは大違いだな。優しそうな表情を見るにつけて、何でも許してやりたくなる。 「まあ…俺のせいもあるからいいさ」 「でも、顔が…」 「飲み会に行くところだったんだろ? どっちにしろ野暮な用で呼び止めてしまったし。まあ…とりあえず外で話そうか」 「はい…」  健気に心配してくれるユカリを連れて外に出ると、全く反省してない様子でサキとミキが待っていた。 「で、おぢさんだーれ?」 「チカン? ゴウカン? フーゾク?」 「もう、2人とも…」  好き勝手に口上を並べる二人に、ユカリが切なげな様子で呆れる。  そりゃ、見た目にはどんな奴に見えても仕方あるまい。とくに今はな。  女性ということもあって、俺をボコボコにした二人は不問に処された。通報され逮捕され調書まで取られた俺は一方的に損した気分である。 「俺は──」  相変わらず不審者扱いするサキとミキ、そしてユカリに、金箔張りの名刺を渡す。   株式会社シー・ディー・エス取締役 兼 プロデューサー              牙藤 竜二 「牙藤さん…ですか」 「ちょっ…コレ…マジ!?」 「えええ!? ホント? ホンモノ!?」  サキとミキは(当然ながら)狼狽した様子で、名刺と俺の顔を交互に見やる。  音楽に携わる人が牙籐竜二の名を見たら、普通はそういう反応をするだろう。 「おもしろい名前ですね〜」  ユカリだけが、何の事かわからない様子で笑顔を見せる。  どうやら相当な無知か、果てしなく天然な性格のようだ。 「ユ、ユカリっ…この人のこと知ってるよね? よね?」 「あわわ…ミキ、10回もストンピングしちゃった…」  10回もしたのか。  二人はボコボコになった俺の顔を見やり、しかし謝るわけでもなく苦笑いして誤魔化す。  何という女たちだ…。 「ええと…ええと…」  口に一本指を当てて、ユカリは思い出そうと頑張る。 「あっ、思い出しました。お好み焼きの…」 『がくー…』  一同、がっくり。  俺はお好み焼きを焼くのが天職だったのか。 「あ、あれ? じゃあ…ロソーンで働いてる方…」  コンビニの店員が金箔の名刺を持ってるのか? 「もぉええわ! あんた健忘症やろ! こん方はなあ…えらーい人なんやで!!」 「ああっ、サッキーの怒ると関西弁になる癖が!」  3人の話す様子は楽しげで、俺は失笑を隠さなかった。  そろそろ本題にしよう。 「ハハハ…お前たち、いいグループになれるよ。どうだい、俺のプロダクションの所属にならないか?」  本心を込めて、3人に言う。  ライブハウスで聞いた曲は1つだけだったが、それだけでもメジャー・デビューに十分足る逸材だということは分かっていた。無名という問題も、俺がプロデュースすればすぐに解決する。  音楽を嫌いになりかけていた自分に希望をくれた、I’ЯAに夢を与えたい。自分はその思いで頭がいっぱいだった。  だがしかし、彼女ら──サキとミキの反応は冷ややかである。 「いいグループ、ねぇ。折角だけど…断るわ」 「うん…サキんにょのいうとおりだね」 「なぜだ? 君たちなら絶対にやれる。俺が保証する」  どうしてそんな反応をするのか? とばかりに首を捻りながら尋ねる。  単に名前が売れたくない、有名プロデューサーのお付きという評判になりたくないということだろう、と俺は単純に考えていた。  あるいは自分をボコボコにしてしまったことへの反省…いや、それはないな。  ユカリが一人、とても嬉しそうな顔で進み出る。 「私は、いいと思いますよ。ずっと夢だったんです」 「ユカリ…」 「お姉ちゃん! だめだよ…!」  サキとミキが、ひどく不安げな様子でユカリを制止した。  2人ともセーターの上から彼女の腕を掴み、胸元に寄せてまで、俺の提案を退けようとしている。 「どうしても、やれない理由があるのか」 「気にしないで下さい。私一人の問題…で…」  ユカリは突然苦しそうな顔をして、目を見開いて異様な咳をする。右手で口を押さえて。 「ゴブッ」 「!」  普通の咳の音ではなかった。ユカリは冷や汗をかいて、青ざめた顔でうずくまる。 「おい、大丈夫か」 「はぁ…はぁ……だ、大丈夫です。先月よりは…楽ですから…」 「口から血が出てるぞ」  俺はそう言って、ユカリに肉薄する。 「あ…」  彼女の腕を取ると、手のひらが鮮血にまみれていた。喀血だ。  これが…理由だったのか。 「ユカリ。俺は別に、死んでまでプロになれとは言わない」 「す…すいません、牙籐さん…私…」  ユカリは頭を下げ、髪の毛で目元を隠すように首を傾げる。  涙の粒が二つ、頬を流れ落ちるのが見えた。 「あーあ、泣かせちゃった」 「『死んでまでプロになれとは言わない』だってさー。くっさー」 「…お前らの気持ちはどうなんだ」  二人の冷淡な台詞に苛立ち、俺はその真意を問う。  ユカリの涙が悔しさによるものなのは明らかだ。ならば尚更、彼女の夢を叶えてあげたいとは思わないのか。 「あのね、あたしたちは一度だけでよかったの。ユカリは病気だけど…歌いたくて弾きたくてって感じだったから。それに、ユカリは歌わなくても大丈夫だもの」 「うん。プロのピアニストから声がかかってるもんね、お姉ちゃん」  サキとミキは、至って現実的な答えを述べる。  一つ、納得できることがあった。二人のドラムスとギターは元々上手ではなかったという事実だ。ユカリのたった一度だけの晴れ舞台のためだけに、必死に努力をして身につけた──ということが、二人の淡々として後悔のない言葉から十二分に読み取れた。  そしてユカリは、本当は一度きりで終わらせたくない。だから俺の提案を受けようとした。喀血しても気丈に振舞おうとした。  俺はそのことがわかったので、導きの言葉を一つかけることにした。 「じゃあもう一つ訊くが…本当にそれでいいのか? 後悔しても明日を行く、という歌を作ったのは何のためだ。無常にも過ぎてゆく、時間はいつでも暇(いとま)でいいのか?」  他でもない、一度きりの本番で歌った曲を引用する。  この曲はユカリが作ったものだ。二人はハッとした様子で、俯く彼女と俺の方とを交互に見やる。 「意味のない歌なんて、ないんだ」 「それは…」  サキはそのまま、言葉に詰まってしまう。 「そう…だったんだ。う…うぇっ、うぇっ…お姉ちゃん……」  何度も姉の歌詞を聞いたのだろう、ミキは耐えきれずに泣き出してしまう。  ユカリはThe Tomorrow Skyの歌詞に、自分の想いを込めていたのではないかと。そのことを彼女らは今になって気付いたのである。  一番の歌詞はユカリ自身のいたたまれない現状の象徴。  二番の歌詞はユカリに訪れるだろう未来、そして取り残された二人の友人の象徴。  そして三番の歌詞こそ、ユカリの希望…意志の象徴なのだ。 「今すぐに結論を出してくれ、とは言わない。いつでも待ってる」 「信用していいの?」  サキが少し、打ち解けた感じで尋ねてくる。ミキとユカリは抱き合っておいおいと泣きあっていた。 「ああ、連絡先は名刺に書いてある。中山っていう秘書が出たら、I’ЯAだと言えば通じるはずだ」 「そう…ありがとう。あなたの言う通りだわ、身体だけ生きてても意味ないものね」 「俺も今日、気付いた」 「?」  リムジンに乗るだけの生活を繰り返すことと同意なのだ。俺にとっても。  The Tomorrow Skyの歌詞は、そのまま自分にも──むしろ多くの人々にも当てはまるものであろう。だからこそ、あれほどの感動を生んだとも言える。 「いや、何でもない。ユカリを大切にしてやってくれ」 「言われなくても、分かってるわよ」  サキはやけに自信たっぷりに、少し笑顔を見せて応じる。 「ユカリ」 「…あの、私。本当に…その……」 「いいんだ。俺こそ、悲しませてすまなかった」  ユカリは涙をぬぐって、それから微笑みを交えて言う。 「私は…続けます。サキも、ミキも」 「そうか、よかった」  その言葉を聞けただけで、俺は満足して笑う。  I’ЯAは一度きりでない。これからもずっと存続する。俺が彼女たちに会えたのは偶然だが、3人の夢が消えなかったのはそれ以上に意味あることだったのだ。 「これからも頑張ってくれ。今日はいっぱい飲めよ」 『えっ』  俺は財布からあるだけの金を取り、3人にそれぞれ手渡す。  手持ちで10万くらいはあっただろうか、一人あたり。 「こんなに…ありがとうございます」  ユカリは深々と頭を下げ、ミキとサキはそれぞれ面白いことを言っている。 「う、うわあ…。ミキ、こんなにお札持ったの初めて…」 「19歳の子供じゃ、当たり前よねー」 「うっさぁぁぁい!! サキサキのバイトの手取りよりは多いじゃん!」 「むかっ! 週3でへばるガキには言われたくないわよ!」 「きーっ! オニサキのくせにーっ!」 「何でいちいち呼び方が変わるのよ!!」  二人はまた言い合いを始めたが、仲はいいようだ。  俺はすっかり気分がよくなったので、そろそろ帰ることにした。 「ははは、やっぱりお前たちは面白いよ。じゃあな」 「はい、ありがとうございました」 「ばいばい」 「じゃーねー」  3人と別れ、ようやく帰宅の途についた。  帰宅した頃には、深夜の3時を回っていた。  家の扉を開けようとすると、鍵がかかっていない。行く時は閉めたのだが…。  泥棒に入られたかもしれない──と思っていたが、リビングに辿りついて理由がわかった。 「中山…」  渋谷で別れた秘書の中山が、ソファーにぐったりと寝転んでいた。  大量のビールの空き缶とともに。 「馬鹿な奴だ。おい、起きろ」 「う〜ん…」  完全に酔っ払った様子で、中山は全くもって起きる様子がない。  なぜこうなったかは想像に難くなかった。 「社長…どうして…」  少し身体を起こしてやると、うわごとのように中山は呟く。  朝から今まで、することもないのでこの家で留守番をしていたようだった。無論ビールは俺の家の所有物であるから、勝手に飲んだということである。  俺はその労をねぎらって、寝室から毛布を1枚持ってきた。そしてそれを静かに掛け、風呂に入ろうと背を向ける。 「社長…だめ…そんなとこ…」  中山はどんな夢を見たのか知らないが、あらぬ想像をさせるような言葉を呟く。 「渋谷…ライブハウス…どこ…電話……」 「くくくっ…」  俺はあまりにもおかしくて、声を出して含み笑いをしてしまった。  前言を撤回しなくてはならない。彼女が俺の激務についていけるのは、何も彼女がターミネーターだからではない、ということだ。  渋谷でずっと俺を探していたのだろう。取引先全てに電話を掛けただろうし、携帯の電源を切っていた俺に連絡を取ろうと必死だったのかもしれない。  そして愛想を尽かしたあげく、俺の家の鍵を開けてヤケ酒に走ったということだ。 「苦労をかけたな」  中山に特別手当を支給しよう、と思った。 I’ЯA武勇伝@ 糸冬