「ごめん、ちょっと遅れた」  そう謝りながら、私は里中奈美の向かいに座った。ハンドバッグを横に置いて改めて 向かい合うと、私はジト目でこちらを見つめる彼女に気付き、思わず視線を斜め上にそ らした。 「十分以上の遅れをちょっとって言うのは田舎ぐらいだと思うんだけど」  その薄いルージュが塗られた唇が尖らされた。私は「ごめん、田舎者だから」と、ち らと喫茶店の壁時計に目をやった。待ち合わせの時間から十分ちょっと過ぎている。私 は前の時もすこし遅れてしまったことを思い出した。奈美は声に出してため息をつくと 、 「いや、真面目にすこしは反省してよ。晴香の遅刻癖、なんとかしないとダメだよ」 「あ、うん、ごめん……」  自分でもわかっているのだけれど、どうしても遅れてしまうのだ。まだ家を出なくて も大丈夫だ、なんて思ってしまって、結局間に合わない時刻を指している時計に気が付 いて、慌てて家を飛び出す。 「出勤するときもそんな感じなの?」  私は首を振って、「ううん、奈美と待ち合わせのときだけ」と真剣に答えた。彼女を 見ると、あいた口が塞がらないという言葉どおりの呆れた表情をしていた。自分として は事実を言っただけに、なんだか複雑な気分だ。実際、会社に遅れるとか、ほかの人と の待ち合わせ――と言っても、ほとんどしないだけど――とかには、遅刻したことの記 憶がない。我ながら不思議だ。 「……それ、私への嫌がらせ?」 「そいうわけじゃないんだけれど」  私は頭を掻きながら、どうしてそうなのかを考えてみたけれど、まったく見当がつか ない。べつに彼女に対して悪意があるというわけでもないし、遅れてしまったことに対 して申し訳ないと思い、なんとか次は間に合うように、と心に決める。なのだけれども 、どうしてもまた遅れてしまう自分がいる。うーん、原因がわからないのがもどかしい 。  結局、いつものように「次は遅れないように」とお馴染みのセリフを私に言い、奈美 はウェイトレスを手で呼んだ。すぐさまやってきたウェイトレスが注文を訊くと、私と 奈美は二人そろって紅茶とケーキを頼んだ。ここのシナモンアップルのシフォンは評判 が良く、そのことを私が奈美に話すと、そういうものに目がない彼女は「じゃあ今度の 土曜に行こう!」となかば強引に私を誘った。しかし私も奈美ほどではないけれど、や っぱり興味があっただけに迷わずOKを出した。 「仕事のほう、最近どう?」  から始まり、上司の悪口へと発展し、今の政治は云々へと至ったところで、待ちに待 っていた注文が運ばれてきた。まず私は紅茶を飲んで一息ついた。来店してからお冷や しか口にしていなかったので、温かいものは心地よく身体に染みた。 「お先に失礼」  先にシフォンに手をつけた奈美は、まさにフォークで切り取ったそれを口に運ぼうと するところだった。私は「ああ、ずるいっ」と慌ててフォークを手にして、自分の皿に 意識を移した。皿にはメインのシフォンと、その横に二枚のスライスされたりんごが添 えられていた。私は舌なめずりをすると、さっそく頂くことにした。  驚いた。やっぱりこういう評判のいいところのものは一味違う。ふわふわとしてしっ とりとしたスポンジに、私は思わず口元をゆるめてしまった。おいしいものを食べて幸 せな気分になるのは久しぶりだ。 「なあに、にたにた笑ってるの?」  と、にやにやと笑いながら奈美がフォークで私の顔を指した。私は口を尖らせて、「 だっておいしいんだもん」と言った。「だねっ!」と奈美は破顔して、またシフォンの 咀嚼へと戻った。  それからいろいろなことを話しながら楽しんだ。シフォンのおいしさも手伝って話も 弾み、気付けばここに来てから一時間も経っていた。そのころにはすでにシフォンを平 らげてしまっていて、紅茶をちびちびと飲みながら粘って話し込んでいる状態だった。お店のほうにはすこし迷惑かもしれないけど。 「さあて、そろそろ潮時かな」  奈美が最後の一口を済ませたので、私もカップの中身を飲み干した。さすがに時間が 経っているので、冷めきっていてお世辞にもおいしいとは言えなかった。私がカップを 置くのを見ると、奈美はにいっと笑ってみせた。 「それじゃ、店を出たら約束を果たしてもらうわよ」 「約束?」  聞き返した私に、奈美はすこしむっとしたように顔をしかめた。私は慌てて記憶を辿 ってみたが、どうにもそれらしいものは見つからなかった。おどおどしている私を見て 、奈美は、 「忘れたの?」  じっと私を見つめて言った。そのとおりで、私はいったい何を約束したのか思い出せ なかった。なのに、私は思わず言ってしまった。 「い、いや、覚えてるよ――」 「うそ」  それは、きっと見栄とかいうつまらないものだったんだろう。後悔をする間もなくあ っさりと私は奈美に見透かされ、何か口を開こうとするのだけれども、うまく言葉が出 せなかった。 「晴香が何かを忘れるのはいつものことだけど」  奈美は一つ大きなため息をついた。 「――そうやって、ごまかそうとするところ、私は嫌い」  いつもより、ずっと厳しい口調だった。奈美がこれほどはっきりと私を非難したのは 初めてのような気がする。私は何も言い返せなかった。本当は忘れているのに、ごまか そうとしたのは事実だったのだから。  ぽんと目の前に何かが置かれた。お金だった。奈美は席を立つと、「ごめん、お会計 お願い。そのことはもういいから」とだけ言って、私に背を向けて歩きだした。引き止 める声が出せなかった。なんと言えばいいのかわからず、結局なんにも言えずじまいだ った。 「…………」  のどがひどく渇いていた。けれどもぬるくなった水の入ったコップを手に取ることも できなかった。テーブルに置かれたお金を見つめながら、いまさらになって後悔という ものが沸き上がってきた。  あれからメールを送ってみたけれども、返事はまったくなかった。いったい何を約束 したのかと頭を抱えて悩んでも、思い出す気配もまったくない。苦痛でしかない仕事か ら解放される貴重な休みであるはずなのに、私はいつもと違って晴れない気分でいた。 「はあ……」  声に出してため息をつく。私は手に握っているケータイをいい加減諦めてヘッドボー ドの上に置き、顔を枕にうずめた。最近買ったばかりの羽毛枕だ。ふわふわで感触は最 高。布団のほうも買いたいと思ってるけど、いかんせん値段がネックだ。  このまま寝たい、と思ったけれども、カシュクールカットソーにデニムパンツという 姿のままなので、寝ようにも寝られなかった。着替えはシャワーかお風呂の後でと決め ている。しかし私はそんな気にはなれなかった。 「あー」  なんとなく声を上げても、どうしようもない。私はぼんやりと天井を眺めながら、ふ と胸が締めつけられるような感覚を覚えた。どうしてこんなときなのか、私は人生最悪 のあの出来事を思い出してしまった。あれから私の信頼できる友達は奈美だけになって しまった。でも、その奈美からも嫌われてしまった。 「あーッ!」  何かを考えれば考えるほど気分がどんどん底に落ちていく。私は叫び声を上げながら 飛び起きた。もうだめだ、いらついてきた。無性にお酒が欲しくなった。酔って何もか も忘れてしまいたい。酔えば何も悩まずに済む。幸いながら、サイフにはまだすこし余 裕がある。酒だ、酒ッ!  そう思い立ってわずか数分後、私は薄めのオーバーを身に着けてサイフの入ったポシ ェットを肩にかけながら我が家を出たのだった。  カウンター席はほとんど埋まっていたが、当然ながら女性客の姿なんてほとんど見え なかった。しかし私一人なので、ここに座るしかない。しょうがなく、私は一人で飲ん でいる若いサラリーマンの隣に座った。 「何にしますかい」  気のよさそうなおやじさんが、にこにこと注文を訊いてきた。 「生大ちょうだい」  一瞬、ちょっと眉をひそめた。そんなにおかしなことだろうか。べつに女が頼んだっ ていいじゃない、とすこし睨むと、何事もなかったようにビールを入れにいった。 「はい、どうぞ」  黄金色で満たされた大ジョッキが目の前にどんと置かれた。私はためらわず、それを ぐいと飲んだ。ほどよい苦味と冷たさが頭をすっきりとさせてくれた。これこそ人類の 至宝であると断言できる。紙ナプキンで口周りの泡を拭きながら、私はさらにつまみ類 を注文した。  すぐに出された塩がよく効いた枝豆を口にほおばり、ビールで胃に流し込むと、私は 一つ息をついた。肩が重い。仕事をしたわけでもないのに、疲労はいつもよりもずっと 溜まっていた。原因なんて明白だったけれど、私はあえてそのことを触れないようにす ることにした。ジョッキにまた口をつける。いつものペースよりもずっと早いが、酔い はまだまだ先だ。私は頼んだつまみを全て平らげると、すこし重めの料理を頼むことに した。 「いいペースだねぇ」  にっと笑うおやじさんを無視して、私はジョッキに口をつけた。気付けば、半分以上 減っている。もうこんなに飲んだのか、と自分で驚いてしまった。まだ入店してからそ れほど経っていなかった。酔いはまだだ――と思う。まだまだ思考を十分にできるほど だ。早く何もかも考えられないくらいになりたい、と私は願った。 「はい、お待ち」  しばらくして出された豚の角煮に、その香気に耐えられず私はすぐさま手をつけた。 箸で一つ口へ放り込むと、なんとも言えない舌触りが広がった。しっかりと煮込まれて いるらしく、ゼリー状となった脂身が口の中に広がり、やわらかい肉と絡み合い、もう おいしいという感覚しかなくなっていた。幸せとはこういうものを言うに違いない。角 煮を咀嚼した私は、ビールを一気に流し込んだ。すこし身体が熱くなっている。気分は 最高だ!  私は残りの角煮に食らいつき、ジョッキを握ったところで中身がなくなっているのに 気が付いた。 「おかわりお願い」 「大丈夫ですかい?」 「何が」  ジョッキを掲げてじーっとおやじさんを見つめる。「わかりましたよ」と観念したよ うに肩をすくめると、ジョッキを受け取って再びそれをビールで満たして、私の目の前 に置いた。私は満足気に頷くと、一気にあおった。 「おやじさん、角煮をお願いします」  隣から注文の声が聞こえてきた。私がちらりとそちらを向くと、同年齢ぐらいのサラ リーマンも同じようにしたため、目が合ってしまった。彼はすこし驚いたような表情を すると、頭を掻きながら首を向きを元に戻した。私はその仕草に眉をひそめた。 「ここの角煮、おいしいですよね」  いったい誰の口から出たのか、一瞬わからなかった。すこししてから、にこにこと笑 いながら隣席のサラリーマンに話しかける私の言葉だとわかった。あれ、私ってそんな ことする人間だったっけ? どうして話しかけたのかもわからないのに、顔は笑顔のま まだ。笑顔というよりもにやぁと弛緩しきった顔かもしれないが、判断がつかなかった 。  いきなり話しかけられてとまどったのか、彼はこちらを向くと、しどろもどろで何か を口にした。 「……ひ……ぶり」  なんと言ったのかうまく聞き取れなかったけれど、短い一言だったので、あいづちか なんかだろうと勝手に決めて、私はまた有らぬ事を口走った。 「大変ですね。土曜なのに、お仕事ですか?」  どうしてこんなことを言ってんだ、という思いも薄れてきた。いいや、もうどうにで もなれ。楽しくおしゃべりだ。 「まぁね」  苦笑した彼が、頭に残っている最後の鮮明な映像だ。  その先、まるで記憶混濁。お酒はよく飲むけれど、だいたいがほろ酔い程度で済む。 が、どうやらこの日は一気にあおったせいもあるのか、べろんべろんの状態だった。結 局、私がしっかりと意識を取り戻すのは、翌日のこととなった。  頭が痛い。まず思ったことはそれだ。ガンガンして割れそうだ。明らかに飲みすぎだ ろう。起きる気力なんてあるわけがなかった。 「…………」  現在地、ベッド。感触でわかる。着替えはしていない。どうやら、どうにか帰宅して そのままベッドに潜り込んだらしい。 「…………」  顔がやけに暖かい、と思ったら、窓からの陽射しのせいだった。今は何時だろう、こ この窓から日が差す時刻だから――と考えようとするのだけれど、鈍った頭ではどうに もならない。どうせ今日は日曜日だ。どれだけ寝ていても構いやしない。 「ん……」  ぽかぽかと気持ちよい。すこしは頭の痛みも和らいだ。私は布団をぎゅっと抱きしめ た。ふかふかだ。……ふかふか? あれ、うちの布団は薄っぺらいはずだぞ? 「……ってええっ!?」  がばっ! と慌てて飛び起きた。同時にその行動で頭痛がぶり返す。頭を抑えながら あたりを見回すと、やはりというか、見覚えのない部屋だった。そして、すぐそこには 一人の人間。心臓が飛び出てしまうんじゃないかと思えるほどに鼓動を始める。ついで に頭の痛みももっとひどくなり、意識が飛びそうになった。 「な、な……なんで……」  慌てふためく私に、椅子に座って読書をしていた彼は、本をぱたりと閉じて一言。 「おはよう」 「……おはよう」  あんまりにも呆れる言葉に、私はすこし冷静になるのを感じた。ゆっくりと深呼吸を して、動悸を治めようとする。頭はまだ痛むけれど、なんとか会話はできそうだ。 「水を持ってこよう」 「あ、はい」  こちらが質問をしようとする前に言われてしまい、反射的にそう返してしまうと、彼 は腰を上げて部屋を出ていってしまった。閉まるドアを見つめながら、私はぼんやりと していた。突然のことと二日酔いで、頭が回らない。どうしてここにいるのか、という のはすぐにわかる。飲みすぎてまともに動くことにできない私を、それまで絡んでいた と思われる彼が自宅まで連れてきたのだろう。けれども、どうしても昔のことを思い出 してしまい、きりきりと胸が痛んだ。好意でやってくれているのだとわかっていても、 どうしても私には堪えがたかった。  一度大きく頭を振ってから、私は着衣を確認した。あの居酒屋の服のままだ。さっと 見たが、とくにおかしく乱れていたりはしていない。安堵の息をついたところで、ドア が再び音を立てたので、私は慌てて肩を張った。 「どうぞ」  彼は氷水を入れたコップをベッドのヘッドボードに置いた。「あ、ありがとうござい ます」とお礼を言ったものの、かなりぎくしゃくとしてしまう。とりあえず私は水を飲 むことにした。一口飲んだだけだが、それだけでも頭痛がすこし和らぎ落ち着くことが できた。一つ大きな息をつく。 「質問、いいですか」 「ん、なんだい」 「あの、ここに至るまでの経緯を詳しく知りたいんですけど」  彼は首をすこしひねって、まず何から話そうか、というような仕草をした。それから おもむろに口を開き、 「どこまで覚えている?」  変な感じだ。こちらから質問したのに、逆にされている。けれどもその問いに答えた ほうが相手にとっても答えやすいのだろうから、私はまだ痛む頭をなんとか使って記憶 を辿ることにした――のだけれど、酔っている最中のことが微塵も浮かんでこない。ダ メだこりゃ。 「まったく覚えてません」  そう答えると、彼は苦笑を浮かべた。 「ずいぶんと悪い酒癖だったぞ、二宮」  末尾に自分の苗字を言われて、私はきょとんとしてしまった。いや、名前は居酒屋で 教えた可能性があるからそれを知っていることは不思議ではないのだけれど、呼び捨て であったことには納得がいかない。それなりに面識があるならともかく――と思ったと ころで、私はあることに思い当たった。まじまじと彼の顔を見つめる。見れば見るほど 、そういえばどっかで会ったような、と思えてくる。意を決して、私はおずおずと訊ね た。 「あのー、つかぬことをうかがいますが、お名前教えていただけませんでしょうか?」  何言ってんだ、というような顔をされた。……べつにそこまで呆れなくてもいいのに 。 「稲垣亮」  姓名だけをぽつりと言ったので、私はその一言だけから高校時代のクラスメートを思 い出すのに、すこし時間がかかった。そしてやっとどうして彼が――稲垣が私を自宅ま で運んだのか理解した。なるほど、同窓の人間と偶然居酒屋で出会って話が盛り上がっ たが、相手が酔い潰れてしまって動けもしない状態だったのなら、そうするのもおかし くはない。 「あの日の打ち上げの時も、酔って送ってもらったらしいね。酒、もしかしてそんなに 強くないのかい?」  私は肩を一瞬震わせた。発言の前半部分のせいだ。おそるおそる、稲垣に訊ねた。 「……私、酔ってた時に、そのことについて話した?」  三年生として一年間ともにしてきたクラスメートたちとの打ち上げ会。それに参加し なかったのは、奈美と、そして目の前にいる稲垣だけだった。二人とも外せない急用が あったとのことだ。二人を除いて行われた打ち上げ会では、とあるものが出された。酒 だ。もちろん未成年なのだけれどもそれを気にする人間はいなかった。かくいう私はも っともそいういったことを気にかけなかった。今にして思えばとんでもなくバカなこと をした。調子に乗って飲みすぎた私は、昨晩の居酒屋での状態のようになってしまった のだ。結局誰かが送り届けることになったのだけれども、それには当時の家の近所だっ た一人の男が名乗り出た。その彼とは家が近いことによるそれなりの交友はあったのだ が、個人的な付き合いはほとんどなかったと言えた。けれどもほかのみんなは、近くな のであればと安易にそれを認め、結果私は反吐が出るような思い出を作るハメになって しまった。その一件で私は二人を除く同級生を恨むようになった。勝手な私怨だ、と頭 ではわかっていてもそうしなくては堪えられなかった。以来、私の親友は奈美だけとな った。  ――その親友からも嫌われちゃったけどね。 「ああ、ちょっと、そのことで話したね」  なせか稲垣は、その時だけ視線を私からそらした。そうしたのはいったいどうしてだ ろうか。何か私に言いづらいようなことが会話で出てきたからだろうか。もしそうなら 、彼が知ったのはなんだろう。私はすこし怖くなった。酔った勢いで口を滑らせたとい う可能性はないわけではない。 「すこし待っててくれるかな」  そう言って稲垣は席をはずした。私はすこしでも沈んだ気分を立て直そうと、明るい 光が差し込む窓の外を眺めた。しかしかなり高い階のマンションなのか、空の色にビル の一部ぐらいしか見えない。すぐにその光景に飽きて視線を下にやると、窓枠のすこし あるスペースにコップが置かれていて、数本の花が挿されていた。キクに似ているけれ ども、あまり詳しくないので花の名前はわからなかった。その白い花弁をみつめながら 私はぼんやりとしていた。とりあえず早く帰らないと迷惑だろう、と思うのだけれど、 身体がかなりだるくて動くのを拒否していた。頭の痛さもまだまだ治りそうになかった 。 「お待たせ」  しばらくしてその言葉とともにドアが開かれた。稲垣が持ってきたものを見て、私は すこし目を大きくした。手にしているお盆の上には、茶碗とマグカップが乗せられてい た。彼はベッドのそばまで来るとその二つをヘッドボードに置いた。今度は大きく驚い た。茶碗には雑炊が、マグカップにはミルクティーが入れられていた。 「これなら二日酔いでも大丈夫だと思う」 「え……。い、いいの?」  私はおろおろとしてしまった。まさかこんなものまで持て成されるとは思ってもいな かった。わざわざここまでしてくれて悪いとも思ったけれども身体は正直のようで、マ グカップから放たれる甘い香りに耐えきれずぐぅとおなかを鳴らしてしまった。どうし てこうも品がないんだろう。私は赤面しながらうつむいた。 「遠慮せず、どうぞ」  稲垣は笑いながら勧めた。 「ごめん。それじゃあお言葉に甘えて、いただきます」  私は頭を下げてから、茶碗にあるれんげを取ったところで、ふと気になったことを質 問してみた。 「この花、なんていうの?」  ちらりとコップの花を見て、稲垣は「カミツレだよ」と答えた。どこかで聞いたよう な気もするけど、やっぱりあまりわからなかったので違うことを訊くことにした。 「男の人が飾ってるのって意外ね。最近買ったの?」 「え? あ、いや、けっこう前からだよ」  どういうわけか、稲垣はあせったように答えた。私はカミツレを見つめながら首をひ ねった。それにしてはどの花もきれいに咲いている。手入れをしていればこんなものな のだろうか。  私は陽射しの暖かさにすこし眠気を催しながらも、れんげですくって雑炊を口に入れ た。しっかりと味付けもされていておいしい。続いてマグカップのほうに手をつけて、 私はそれがロイヤルミルクティーであることに気付いた。手間のかかる飲み物だ。 「……どうして、私にここまで?」  疑問が口をついて出た。稲垣は頭を掻くと、おもむろに口を開いた。 「……きみのことが――たからだ」 「え?」  よく聞き取れなかったので稲垣の顔を見つめると、彼はばつが悪そうに目をそらした 。 「いや、なんでもない」  そう言って本を手にして読書を始めてしまったので、私は聞き直すことができなかっ た。なんと言ったのだろうか。私が哀れに思えたから? 居酒屋であのことを話したと いうのを思い出しながら、私は自嘲の笑みを浮かべた。  マグカップのロイヤルミルクティーを飲む。シフォンケーキに合いそうだな、と思っ た。ふと奈美のことを思い出して、私はすこし憂鬱になった。あれからメールは来たの だろうか。それを確認したかったけれども、そうするのを恐れてもいた。 「親友とは気が置けないものだ」  唐突に、なんの前触れもなく、稲垣は手元の本に顔を向けながら口を開いた。 「しかしそれゆえに、無遠慮になりすぎるということもある」  そうだろうか。私は奈美のことを考える。そうだ、やっと理解した。私はいつも人に 対して身構えて接してきた。あの一件から、人に対する信頼というようなものが薄れて しまった。だからできる限り人に関わらないようにするために最低限の接し方をしてい て、無意識に失敗をしないようにという気持ちがあった。けれども奈美に対してはそん な身構えはなかった。知らず知らずに安心して接していた。気を抜いてしまう、という のだろうか、そのせいでいつもはしない失敗というのをしてしまうのだ。  ぱたりと本を閉じて、稲垣は私に顔を向けてほほえんだ。 「断言しよう。彼女はきみの親友だ。そして親友はそんな簡単に絶交をしない。一度彼 女に会って、真摯に謝れば必ず許してくれるさ」  マグカップに口をつける。暖かくて甘いロイヤルミルクティーを味わいながら、そう だ、また今度の休日に自分でシフォンケーキを作って、奈美と一緒にこれを飲みながら 楽しもう、と思った。お店のものよりはうまくできないかもしれないけれど、自分で作 るということで一味違うものになるのだ。型なんかの道具一式を揃えるのにすこし出費 しなくてはならないけれども、なあに切り詰めればなんとかなるさ。 「カミツレの花言葉は、仲直りだ」  稲垣は肩をすくめると再び読書に戻った。私は首をかしげたが、あの花のことを思い 出して内心でくすりと笑ってしまった。なんだ、そういうことか。わざわざこんな私の ために、まったくいい人だ。 「ありがとう。きっと仲直りする」  ぽかぽかとした光を陽射しを身体に浴びながら、私は暖かくて甘いロイヤルミルクテ ィーを一口すすった。