土曜日の昼下がりだったが、風が強かったため公園で遊ぶ子供はまばらだった。その子供たちも、風に流されるためにボール遊びは諦め、お昼も近いので家に帰ることにした。公園の入り口でバイバイと手を振って解散する。  子供の一人は、友達たちと別れたあと、公園のほうへと歩き出した。家に帰るには公園を横切るのが近道だった。その子供は歌を歌いながら、背の高い木がまばらに植えられた公園を横切る。  と。  急に強い風が吹いて、子供の帽子が飛ばされた。その帽子は数ヶ月前の誕生日に大好きな姉から貰った帽子で、その子の宝物である。 「あっ、まてっ!」  子供は慌てて立ち上がって駆け出すと、少し離れたところに飛ばされた帽子を追いかけた。幸い、すぐに追いつき帽子を拾うことができた。丁寧に帽子の汚れをはらった後、帽子をしっかりと被りなおす。  本当は、帽子のつばをちょっとだけ横にずらして浅めに被るのが「カッコいい」のだけれど、また帽子が飛ばされたらいやだからと、普通につばを前にして、深く帽子を被った。  帽子を被りなおしたその子供は、ふと何かに気づいた。  振り返り、気になるほうに目をやる。そして、その子供はもともと大きい、くりくりした目をさらに大きくして、叫んだ。 「大変だ!」     ※  気がつくと、私は寝床にいた。といっても私が普段使う寝床ではない。私の寝床はもっとコンパクトでシンプルだ。すなわち、ここよりもっと寝床の面積が小さいという意味であるが。  辺りを見回すと、明らかに自分の家ではない。つまり、私がいるのは他人の家らしい。自分の家でないのだから当たり前だ。他人の家に入るのは初めてではないが、なぜか妙に新鮮さがあった。  妙に頭がすっきりしている。脳みその中をきれいに掃除したみたいな感じだ。かの名探偵の表現を借りるなら、私の灰色の脳細胞も、今はきらきらと光っているだろう。  それにしても、どうして私が見知らぬ家の寝床で寝ているのか、皆目見当がつかない。ただ、体の節々が痛いことから考えて、どうやら怪我をしていたようだ。さいわい軽い打撲だけのようだが、とにかく怪我をして意識を失っていたところを、この家の者に助けてもらったらしい。つまりこの家のものには感謝するべきだ。それぐらい、私にもわかる。  ふむ。ちょうどこの家の者が来たようだ。さっそく礼を述べるとしようか。  部屋のドアを開けて入ってきたのは子供だった。 「やぁ、こんにちは」  私は相手をなるべく怖がらせないように挨拶をした。無論、しようと思えばもっと礼儀正しく挨拶できるのだが、相手は子供である、あまり難しく話したところで意味がないだろう。 「気がついた!」  子供は嬉しそうに叫ぶと、こちらへと走りよってきた。 「ぐったりしてたから、このまま死んじゃうのかと思ったよ」  そんなことを笑顔で言われても困る。確かに気絶していたくらいなのだからぐったりはしていたのだろうが。 「君が助けてくれたんだね。ありがとう」  私はとりあえず礼を言った。相手が子供だからといって礼儀を忘れるのは、私の流儀ではない。 「ボクはユウキっていうんだ」 「そうかい。助かったよ。ユウキ」  敬称をつけるべきか、と思ったが、子供を呼ぶのに『君』をつけると、どうも上から接しているような気がして気に入らない。普段、私は知人とはファーストネームで呼び合う主義だった。 「君、名前は?」  ユウキが私の目を覗き込みながら尋ねてきた。名前を隠す理由も無いので、私は名乗ろうとした。……名乗ろうとしたが、出来なかった。記憶の引き出しの中の、確かにそこにあるはずのものが感じられない。すっぱりとそこで切り取られたかのようだった。私は……、  自分の名前が、どうしても思い出せなかった。  いや、もしかすると名前以外のこともたくさん忘れているのかもしれない。とっさに心の中で自問した。  私はどこに住んでいただろうか? 好物は何だったろう? 趣味は何だった? 家族の数は? 瞳の色は?  すべてに関して、ほぼ完全に記憶がない。  突然に、心臓が冷えたような気がした。       ※  ユウキは私が何か言うのを待っていたようだが、時計の三本の針のうち、いちばん長い針が文字盤を半周するほどの間私が黙り込んでいると、ユウキは回答を得るのを断念したようだ。 「どうしたの?」 「いや………」 「名前ないのなら、つけてあげるね」  ユウキは微笑んだ。あまり状況を把握していないようだ。子供だから無理も無いのかもしれない。私の黙考の間に、ユウキは何か思いついたようだ。 「じゃあ、んっと……。そうだ、ミチル。君の名前はミチルだよ」  もう少し紳士っぽい名前がいい、と私は抗議しようと思ったが、名前について抗議するのは紳士ではないと思い直し、妥協することにした。  便宜上のものとしても洗練されたとは言いがたいネーミングだったが、記憶を失った私に、さし当たっての名前などに気をかける余裕も無かった。 「………まぁ、しばらくはその名前で呼んでくれてもいい」 「じゃあ、君のご飯を持ってくるからね」 「いや、その必要は無いよ」  私の返事を聞かずに、子供は走っていってしまった。やれやれ、忙しい子だ。  私はゆっくりと部屋の中を見回した。とりあえず今の状況についての情報を集めたかった。どうやら、ここはユウキの部屋らしい。子供用のベッドがある。その傍には、やはり子供用の勉強机が置かれていて、机の上には割と新しい野球帽が丁寧におかれていた。壁際にある棚にはスケッチブックや色鉛筆などが置いてあった。強い風に叩かれている窓から外を見ると、この家の庭が見下ろせた。どうやらここは二階らしい。庭の向こうには、見覚えのある公園があった。よく目にする木が風に吹かれて大きくしなっている。この辺りに、私は来たことがある。どうやら、私の記憶もある程度ぼんやりとは残っているようだ。少し安心した。きっと気を失ったときのショックで、一時的に脳の回路が混乱しただけだ。すぐに直るだろう。  しばらくすると、部屋の外からトタトタと足音が聞こえ、ユウキが戻ってきた。二つのカップと紙パックの牛乳が乗ったお盆を、両手で持っている。  ユウキは私の前まで来てお盆をおくと、カップに牛乳を注いだ。カップのうち一つは、子供用のかわいい柄のカップだった。ユウキのお気に入りのカップらしい。もう一つのカップは、カップというには背が低くて底が広く、シチュー皿を小さくしたものに取手を付けたようなものだった。これが私のカップらしい。 「どうぞ」  ユウキが私にカップを差し出した。そのあと、自分のカップにも牛乳を注ぎだす。 「ありがとう」  私は礼を言うと、ユウキが牛乳を注ぎ終え、自分のカップを手にするのを待ってから、牛乳を飲んだ。少し腹が減っていたので、この牛乳はありがたかった。  カップの半分ほど飲んでから気づいたが、私は牛乳を飲むのが初めてかもしれない。無論、忘れているだけかもしれないが、牛乳の味は新鮮だった。私はカップ一杯の牛乳を全て腹におさめ、満足だった。 「もういいの?」 「ありがとう。もう満足だよ」  そう言ってユウキの顔を見ると、ユウキの口の端に牛乳が少し付いていた。 「おや、口に牛乳がついているよ」 「もう少しいる? わかった」  私の言葉が聞こえなかったかのように、ユウキは私のカップに半分ほど牛乳を注いだ。 「それよりも、ユウキ。口に牛乳がついているぞ」  私は先ほどより少し大きめの声を出した。 「ん? もっといる?」  ユウキの言葉に、私は大人気なくも声を荒げそうになった。しかし、ユウキの悪意の感じられない笑顔を見て寸前で思いとどまり、代わりにある可能性に思い至った。 「変なことを聞くようだが、ユウキ。私が何を言っているのかわかるかい?」  言いながら、私はユウキが「当たり前だよ」と吹き出すのを願っていた、あるいは「馬鹿にするな」と怒ってくれてもよかった。しかし、ユウキの反応はそのどちらでもなかった。 「もう牛乳いらないの? じゃあ、片付けてくるからね」  そう言ってユウキはお盆を持って部屋を出て行った。  私は頭を抱えたくなった。どうやらユウキは私の言葉がわからないらしい。今までは、素振りなどからなんとなくイエスかノーかを判断していただけのようだ。思い返せば、なんとなく不自然な会話がいくつか思い当たった。  どうして私の言葉がユウキに通じないのだろうか。私は不思議に思った。最初に思い至ったのは、ユウキが外国人だという可能性である。しかし、思いついてすぐ否定された。なぜなら、私はユウキの言葉がわかる。ユウキが外国語しか使えないならば、私もユウキの言っていることがわからないはずだ。 いろいろな可能性を考えていると、すごくいやな思い付きをしてしまった。もしかして、私が意味のある言葉を話せていないのではなかろうか。まさかとは思うが、私は記憶を失っているくらいだ。脳に障害を受けている可能性は十分にある。うまく話せていないという自覚が無いのが不思議だが、それだけでは反証としては弱いだろう。ユウキの反応を見ても、私が何らかの音声を発しているのは間違いが無い。しかし、このままではイエス・ノーの意思表示しか出来ないかもしれない。  私は必死でユウキに私の意志を伝達する方法を考えた。最初に思いついた方法は筆談だった。しかし、ここには書くものが無かった。ユウキに貸してもらうにしても、どうやってその意志を伝えるのか。結局振り出しに戻る。  私が考え込んでいると、ユウキが帰ってきた。相変わらず口の端に牛乳がついている。しかし、教えてやろうにも私には意志を伝達する手段が無い。  ふと思いついて、私は部屋の中を見渡した。鏡の前にユウキを誘導すれば、ユウキが自分で気づくと思ったのだ。私は部屋を見渡したが、この部屋には鏡はないようだった。それどころか、顔が写りそうなものが一切無かった。窓ガラスを見ても、外がまだ明るくてほとんど反射しない。風はとても強いくせに、空はほとんど曇っておらず、太陽は憎たらしいほど強く照っている。  どうしたものかと困った私を見て不思議に思ったのか、ユウキは自分の頬をかいた。そのとき、自分の指が当たって、口元の牛乳に気づいたらしい。「わぁ」とつぶやくと、学習机の上におかれたティッシュで口元をふき取った。そのとき窓の前にいた私からの視線気づいて、照れ笑いをして口元で指を立てた。どうやら、誰にも言わないで、という意味らしい。私は了解の意を伝えるため。笑って見せた。  ティッシュを捨てたユウキが私の隣までやってきて窓の外を見た。大きくしなる木々を見て、先ほどまで牛乳がついていたかわいらしい顔をしかめる。 「いやだなあ。台風だと思う?」 「どうかな。空はほとんど曇っていないから、すぐに収まると思うがね」  通じていないとわかっているものの、私はユウキの問いかけに答えた。案の定ユウキは私の返答には適当に頷いただけだった。 「台風なんかどっか行っちゃえば良いのに」  窓の外で吹き荒れる風を眺めて、ユウキはそうつぶやいた。  私は窓から離れると、最初に私が目覚めた寝床へと腰掛けた。言葉がかけられない私に出来るのは、窓の外からユウキの気をそらすことだけだった。それでも、私の作戦は成功し、ユウキは窓から離れて、私の前にある椅子へと腰掛けた。 「外に出られないと退屈だね」  私へと話しかける。ユウキも私が話せないことはわかっているらしく、返答は期待していないようだ。座ったばかりなのに再び椅子から立ち上がり、雑貨のしまわれた棚へと駆けていく。  再び椅子へと腰掛けたとき、ユウキはスケッチブックと色鉛筆を持ってきていた。私のほうを向いてニカッと笑うと、 「君を描いてあげるよ。じっとしていてね」  そう言ってスケッチブックを広げる。よく絵を描くらしく、前から三分の二ほどのページには既に絵が描かれていた。題材は動物であったり、車であったり、怪獣のようなもの(アニメか何かのキャラクターだろうか)であった。それらのどれをとっても、子供らしからぬ丁寧なタッチで描かれていた。しかし、そうかといって小さくまとまりすぎているわけではなく、なんとなく才能を感じさせる。  その才能のつぼみは、新たな絵の題材に私を選らんだらしい。それは光栄なことだ。私はユウキに微笑んでみせた。  空白のページを見つけると、ユウキは色鉛筆を取り出して、私に向き直った。 「準備できた?」  準備も何も、私にはどうしていいのかわからない。結局、姿勢を整えた状態でユウキに声をかけた。 「準備できたよ」  雰囲気から意味を察してくれたらしく、ユウキは十数本の色鉛筆から一本を選んで構えた。 「描き終わるまで動かないでね」  そう言って色鉛筆を動かす。やはり、丁寧なタッチで、ゆっくりと描いているようだ。視線が頻繁にスケッチブックと私を往復する。ユウキが描き始めてすぐ、私はモデルに向いていないことを悟った。スケッチブックを持ったユウキが真剣な目で私のほうを見てくるのはなかなか気恥ずかしい。その上、時間がたつにつれ、姿勢を維持するのにも疲れてきた。どうやら、張り切って姿勢を整えすぎたらしい。普段は意識もしたことが無いような筋肉が痛くなってきた。  ユウキはスケッチブックを立てているので、私からはユウキの描いている絵がまったく見えない。おかげで、あとどのくらい今の姿勢を維持したら良いかもわからず、かなり疲れる。姿勢を維持することに集中していると、筋肉を余分に疲れさせてしまう気がしたため、私は絵を描いているユウキを眺めた。すると、真摯に私を見つめるユウキと目が合ってしまった。照れ隠しに微笑んで、視線をユウキの手に移すと、私はあることに気がついた。  ユウキは、先ほどから青い色鉛筆を使っているのだ。手の動きから察するに、おそらく私の顔のあたりを書いているはずなのだが、先ほどからほとんど青色以外の色を使っていない。私の顔はそれほど青いのだろうか。  記憶がないだけに、非常に不安になってきた。だが、確認しようにもこの部屋には鏡がない。私は、先ほど以上に落ち着かない気分になった。  それでも、真剣に描いてくれているユウキの手前、がんばってモデルをしていると、ユウキが色鉛筆を握った手を止めた。 「お疲れ〜。もう動いて良いよ」  私はその声を聞くと同時に全身の筋肉の力を抜いた。脱力するとよくわかるが、やはりかなり筋肉がおかしな感じに張っている。完成した絵を見たい気持ちはあるが、とにかくあと三十秒ほどは張った筋肉を休めたかった。      ※  短い休憩の後、私がスケッチブックを見るためにユウキの後ろに回ろうとすると、ユウキは絵が私から見えない角度にスケッチブックを傾けた。 「まだ完成してないから見ちゃダメだよ。もうちょっとに色塗りが終わるから」  そう言って、器用なことに絵が私に見えない角度にスケッチブックを保ったまま、色鉛筆を使っていた。  私は素直にもといたところに戻って、ユウキを眺めていた。ユウキは相変わらずせっせと青色の色鉛筆を動かしていた。私はますます不安になった。きっと背景の色だろうと思い、自分の後ろを見てみるが、明るい木の色をした机の上には、せいぜい日付の記されたタグを首に下げている薄紫色の熊のぬいぐるみが置かれているだけで、青っぽいものは見あたら無かった。 「よし、できた」  ユウキの声に私は振り返った。いまだ私から絵が見えない角度にスケッチブックを保っているが、既に色鉛筆は持っておらず、満足げな顔をしている。  今度こそと私が近づくと、ユウキはパタンとスケッチブックを閉じてしまった。通じないのを承知で、軽い抗議の声を上げる。 「あのね、絵を描いたら、とりあえずそのままにしておいて、次の日に最後の仕上げをするの。そうするといい絵になるんだって」  そう言われると、私としても引き下がらざるを得ない。完成したらすぐに見せてくれ、と目で訴えるだけにした。 「姉ちゃんは物知りだね」  突然同意を求められて、私はおどろいた。文脈から察するに、「いい絵を描くために一日置いてから仕上げる」というテクニックはユウキの姉が教えたらしい。そのテクニックの効果はともかく、似顔絵を見られるのが一日お預けになったのは彼女のせいらしい。ちょっとだけ恨めしかったが、ともかくユウキには同意しておいた。 「絵は姉ちゃんが教えてくれたんだよ。姉ちゃんは絵がうまいんだ」  姉の話になるとユウキの口数がずいぶん増えた。どうやらユウキ自慢の姉らしい。私も少しだけ会ってみたくなった。  すると、不意にユウキの部屋のドアがノックされた。噂をすれば、という奴であろうか。 「ユウキー? 入るよー」  言い終わった時点で既に、彼女は部屋への第一歩を降ろしていたような気がするが、とにかくそう言って若い女性が入ってきた。ユウキより年上で、五つぐらい離れているだろうか。 「姉ちゃんおかえりー」  ユウキは椅子から降りて姉の方へと駆け寄る。そして、彼女の前まで行くと、 「テストどうだったー?」  にこやかに尋ねた。 「あうっ。せっかく忘れていたのに……。っていうか、なんで知ってるのよ?」 「あのねー、母ちゃんが言ってた。姉ちゃんが帰ってきたら『テストどうだった?』って聞けって」 「まったく。油断できない母親ね」  なんだか、微妙に変わった性格の家族が多いユウキである。 「まぁそれはともかく、もうすぐ晩御飯だから降りてきなさいね」  そう言ってユウキの姉は部屋から出て行きかけたが、その途中に一瞬私と目があった。 「あら? ユウキのお友達?」  再び部屋の中へと向き直って言う。 「そう。ボクの友達で、ミチルっていうの」  ユウキが私を紹介してくれた。私は軽く会釈をする。 「そう、じゃあ、その子の晩御飯も作らないとね」  お構いなく、と言ってみたが、案の定意味は通じなかったようだ。ユウキの姉は、私に微笑すると部屋を出て行った。 「えへへ、あれがユウキの姉ちゃんだよ」  彼女が部屋を出て行ったあとで、ユウキが私に言った。私のひそかな期待通り、ユウキの姉は笑顔のかわいい整った顔立ちをしていた。 「そういえば、ミチルは何を食べるの?」  ユウキが思い出したように尋ねてきた。どうやら、晩御飯のことらしい。今から作るのだろうか。 「特に好き嫌いはないと思うが………」  言ってみたものの、自分でも自信がない。以前の自分の食事風景というものがまったく思い出せないのだ。好き嫌いぐらいなら忘れているぐらいだから問題ないだろうが、万が一私がアレルギー持ちだとすると大変だ。あるいは、私が熱心なヒンズー教徒であるならば、牛肉は食べられない。イスラム教ならば豚肉を避ける必要がある。 「さっき牛乳飲んでたし、それで良いかなぁ ?」  私が困っているのがわかったのか、ユウキは助け舟を出してくれた。たしかに、牛乳なら先ほど飲んだからアレルギーの心配はない。ヒンズー教やイスラム教で牛乳を飲むのを禁止しているのかどうかは寡聞にして知らないが、牛を殺しているわけではないから、おそらく問題ないであろう。  私が身振りで了承の意を伝えると、ユウキはわかってくれたようだった。 「じゃ、待っててね」  ユウキはパタパタと部屋を出て行った。  それを見送り、私は再び自らの思考に沈んだ。記憶も言葉も失ったままでは、私はこれか他の方針が立てられない。  ………そういえば、記憶も言葉も失ったのに、私は思考だけは失っていないようだ。  地獄で仏とはこのことだろうかと、私は自らの幸運を喜ぶ。もっとも、言葉を失っていたことにはじめ気付いていなかったように、思考も失ったことに気づいていないだけであるという可能性も、無いではない。そもそも、思考を失わなかったことが幸いなのかも怪しいものだ。いっそ思考をも失えば、こうして思い悩むことも無かったのではなかろうか。  『不満足なソクラテスと満足した豚』ではないが、そんな戯言が心に浮かんだ。     ※  夕食の後、ユウキは食器を持って階下へ下りていった。窓の外を見ると、すっかり日は落ちていて、視界はあまりきかなかった。先程はよく見えた公園の木々が、黒くのっそりと蹲っているのが見えるくらいだ。  暗闇に潜む木々とは対照的に、風はいっそう激しくなり、自己主張している。そんな暗い視界の中で、白い何かが蝶々のように舞っているのが見えた。目を凝らしてよく見ると、ビニール袋のようだ。よく見れば、暗闇の中ではそれ以外にもたくさんのものが舞っていた。新聞紙、雑誌、手拭いのようなぼろきれなど、 さまざまなものが好き勝手に下手なダンスを踊っている。  ゴミ箱の中身を洗濯機に入れたら、こんな感じになるだろうか。それらは、重さなど無いかのように風に弄ばれていた。  危ないな、と思う。どうやらガラス一枚隔てた外では、猛烈な風がそこら中のものを吹き荒らしているらしい。少しでもその暴風から距離を置こうと、私はカーテンを閉めようと思った。  そのとき、部屋のドアが開き、ユウキが帰ってきた。私が窓際にいるのに気付くと、こちらへと歩いてきた。私はそれに軽く合図をする。結局カーテンは閉められなかった。 「凄い風だなぁ」  私の隣に立ち、ユウキは外を眺める。相変わらず外は洗濯機のような状況で、たまにビニール袋などが部屋の窓を掠めた。  いつまでもこうしていても仕方がない。ユウキが窓から離れるように促そうとしたときだった。  風に飛ばされてきた何かが窓ガラスを叩き割り、室内へと飛び込んできた。  私もユウキも慌てて飛びのいた。どこか怪我をしていないかと素早く確認すると、ユウキは腕の辺りを破片で少し切ったらしい、うっすらと血が滲んでいた。  とにかくガラスの破片が散らばる場所からユウキを遠ざけようとしたが、窓から吹き込む風にあおられ、ユウキはその場に尻餅をついた。私も、吹きつける風のために、不用意に動けない。 吹き込む風は、部屋の中を荒らしまわっている。ベッドのシーツを乱し、机の上のノートや鉛筆を散らかす。  風をなんとかしようにも、窓ガラスが割れてしまっていては打つ手がない。私がどうしようかと思っていると、尻餅をついた体勢で呆然としていたユウキが突然叫んだ。 「ユウキの帽子がっ!」  その視線を追うと、野球帽が風に飛ばされていた。まずいと思ったときにはもう遅い。野球帽は窓の外の危険な洗濯機へと吸い込まれていった。 「ユウキの帽子っ!」  ユウキが立ち上がり、窓から乗り出そうとする。それを慌ててさえぎり、私は帽子の行方を探る。帽子は既に数メートル彼方でぐるぐると舞っている。風の勢いから見て、放っておけば探しようが無いほど遠くまで飛んでいってしまいそうだ。  諦めなさい、そうユウキを諭そうと部屋の中へ目を戻した。しかし、いまだ帽子を見つめるユウキの目には、涙が浮かんでいた。まるで見えない糸を手繰るように、血の滲む腕を窓の外に突き出している。その足は靴下越しとはいえガラスの破片を踏んでいるのだが、そんなことに気付く様子も無い。よほど大切な帽子なのであろう。このままでは、ユウキは窓から飛び出しかねない。  仕方ない。  私は窓の枠に立ち、顔を叩く暴風に耐えながら、外を見据える。幸い帽子との距離は先程とさして変わらず、数メートル。これなら、なんとか回収することができそうだ。 「ミチル? 何をするつもり!? ミチル!?」  私の意図に気づいたのか、ユウキが呼びかける。 「まぁ、私なら、そんなに酷い怪我はしないさ」  ユウキにそう言うと、私はユウキの帽子をしっかりと見つめたまま、窓枠を強く蹴った。  風が痛い。刺すような砂埃に思わず目を閉じかけるが、帽子を見失わないよう、必死で瞼を支える。  帽子まであと少し。何とか届きそうだ。あと一メートル、五十センチ、………よし。  何とか帽子を捕まえた。視界が涙で滲む。着地は失敗しそうだ。地表が迫る。芝生だから、死ぬことは無いだろう。帽子を離さないようにしなければ。体勢を整えようともがく。せめて足から。頭をかばう。涙が落ちた。衝撃に備える。目を閉じた。歯を食いしばる。筋肉を緩めて、クッションをつくる。  全身に衝撃が走った。やはり勢いを殺しきれない。頭を打たないように転がる。骨は大丈夫か。とりあえず意識はある。どうやら無事のようだ。安堵のため息をつく。帽子が飛ばないように、しっかり押えた。  窓からユウキが何か叫んでいる。風に邪魔されてよく聞こえない。風から顔をかばいながら、少しだけ目を開けた。見上げると、窓から随分離れている。かなり風にあおられたようだ。地面にはたくさんのごみが散らばっている。空き缶が転がってきて、私の足物で止まった。そちらに目をやる。  つぶれた缶の青い表面に、不思議そうな顔が映っている。  それは、私の顔だった。  そして、私は記憶を取り戻した。。     ※  あのあと、玄関から飛び出してきたユウキに連れられ、私は家の中に入った。ユウキの部屋は酷い有様だったから、とりあえず窓だけ何とか塞いで、今日はユウキの姉の部屋で過ごすことになった。私は体の汚れを落とし、寝かされている。もちろん、帽子はとっくにユウキに渡してある。  私の寝床は、箱に何枚かの布をひいたもので、ふかふかして気持ちがよかった。昨日はずっと寝ていた気がするが、ともあれ、私は気持ちのいい睡眠をとることができた。  窓の外を見れば、既に昼である。ありえないほどの寝坊であるが、まぁ、昨日の今日であるから仕方がない、としておこう。 「あ、ミチルが起きた!」  楽しそうな声の方を見ると、ユウキが座っている。今日はスカートをはいていて、可愛らしさが三割増しだった。帽子もしっかりと被っている。 「おはよう、ユウキ」  全身をほぐしながら、私はユウキに挨拶する。相変わらず私の言葉はユウキには通じないが、私は言葉を用いずにも言いたいことを大体伝える方法を思い出していた。  昨日、外に飛び出したあと、空き缶に映った自分の顔を見た私は、失っていた記憶を取り戻した。これで失ったものは名前だけになった。いや、名前はもともと無かったから、失ってなどいない。むしろ、ユウキに与えてもらったというべきだろう。 「あ、そうだ。絵が完成したから、見せてあげる」  そう言ってユウキはパタパタと駆けていった。  程なくして戻ってくると、ユウキはスケッチブックを開いた。パラパラとページをめくり、やがてあるページで止まった。 「ほら、ミチルの絵だよ」  ユウキが指し示す先には、なれないモデルに戸惑いつつも、こちらに笑顔を向ける、一羽の青い鳥の姿が描かれていた。  そう、これが私の姿。  私は羽をパタパタと動かし、拍手に代えた。気を失っていた私を助けてくれたのがユウキで本当によかったと思う。 「それでね、ミチル。今日、姉ちゃんと、ミチルのちゃんとしたベッドと、ご飯を買いに行くことにしたんだ。夕方くらいには帰ってくるから、楽しみに待っててね」  私は笑って感謝の意を表した。  出掛けるユウキを見送ってから、私は信じてもいない神さまに感謝した。そして、あつかましくももう一つお願いをしてみる。  願わくは、ユウキとの友情が私の生涯のものとなりますように………。