――ある飛行気乗りの独白――  アイツは北のエースだった。  それは誰もが認める事実であり、同時に夢の様でもあった。  アイツが空に上がってきたのは戦争が始まってすぐの時だった。  最初のころは飛び方が安定して無くてな。戦闘空域の端っこでおっかなびっくり飛んでばかりだった。“ビビリの6”だとか幸運だけで生き残ってる“ラッキー6”だとか呼ばれて、狙うこっちがかわいそうになるくらいだった。  本当に、あれでよく生き残れてたもんだよ。  俺もなんどか手合わせしてことがあるが、逃げるのがやっとっていうようなマニューバ(機動)でな。まったく追っかけるこっちがハラハラしちまうんだわこれが。  ――それが、いつのころからかアイツの飛び方が変わったんだ。  いつの間にか、六番は激戦に飛び込んでくるようになって。チャタリングで折れそうだった翼は鋭く空を裂くようになって、息継ぎをするような加速は格段に滑らかで美しくなった。  誰もが己の目とウデを疑った。アレが“ビビリの6”のマニューバか、と。そして次の瞬間には噛み付かれ、墜とされていった。  アイツの戦績の向上にはめまぐるしい物があった。毎回のようにキルマークが増えていた。  最初は三機墜とされ。  次の週には五機墜とされた。  そのまた次の週には第八飛行分隊が壊滅。  その二週間後には精鋭ぞろいの第六十一攻空飛行隊の第六分隊がまるまる墜とされた。  そして当然のように、根も葉もない噂がどこからとも無く湧き出た。このテの輩にはそれらしい“怪談”がつきものだからな。  単にパイロットが変わっただけ。  機体が最新鋭のシステムに換装されてる。  無人機じゃないのか?  俺も最初は無人機の線を疑った。上の話によると北は無人機のテストを頻繁に繰り返しているっていうし、聴くところによると、人が乗っているとは思えないオーヴァーGギリギリのマニューバをしやがるらしいんだ。  だから俺は、六番に乗ってるのは人じゃなく機械だ、そう思ってた。  それでも、六番の快進撃に減速の色は見えなかったし、さらにそれは加速を続けていた。  まるで高みを目指す禽のように。  腕に覚えのあるベテランは我先にと六番を奪い合い、挑み、そして次々にロスト。若手の間では「六番に出会ったら先ず念仏を唱えろ」っていう笑えないギャグが流行った。  俺の隊にい沙山って男なんかな、「いつ六番と出くわしても良いように」ってデジカメとマイクロレコーダーを持って飛ぶんだぜ。せめて最後に記念の一枚とインタヴューを、ってな。  そして六番の噂はどんどん怪しく、漫画じみてきた。  無人機じゃなかった。  晴れた夜にはセントエルモの火を纏っている。  翼にグレムリンが乗っていた。  奴は悪魔憑きだ。  整備クルーの奴らまでもが、休憩時間には六番の話で持ちきりだった。  実のところ、戦闘機の乗りのことを一番気にかけているのが整備クルーだ。自分達の整備した機体とそれに乗るパイロットが無事に帰還することのみが、奴らのアイデンティティなんだからな。  自分の整備した機体がロストする。それが彼らにとっての屈辱であり、悲劇なんだよ。  徐々に、そして確実に。六番という得体の知れないエースは神秘性をまとった。  六の付く機番は狙われる。  奴にはこちらのAWACS(早期警戒管制機)からの通信が聴こえている。  またグレムリンを見た。  アクティヴステルス機じゃないのか。  そのころに俺はこの目で六番が無人でないことを確認していた。アイツ、こっちに一瞥もくれなかったぜ。グレムリンやセントエルモの火は確認できなかった。何しろケツに付かれないようにするので精一杯だったんだ。  噂は消えるどころか、いつのまにか隊の常識になりつつあった。  奴は瞬間移動する。  そっけない星型だったキルマークがいつの間にか“目”になっていた。  グレムリンと目が合った。  翼端から発するベイパーまでもが光を帯びていた。  やつはまるで“アズラーイール”だ。  アズラーイールってのはイスラム教において死を司る天使で、全身に無数の目と口を舌があって、人の罪を見て、語り、そして裁くんだとさ。人の魂を司る天使。誰が最初に言ったかは知らないが、その頃からアイツはアズラーイールと呼ばれるようになった。  アズラーイールがグレムリンを組み敷いて人間狩りをしているんだ、とも言われていたな。  噂だけが一人歩きしていた。なにか釈然としない、神話や御伽草子じみた感じのものもあったが、いつの時代だって戦場には“英雄”と“伝説”が必要だったんだ。  英雄や伝説の存在によって自分が見た凄惨な現実を少しでも彩ろうと、兵士達は武勇伝を語り、友情を語り、正義を語り。戦争が終ってからも自分を鼓舞し続けなければならないものなんだ。そうしなければ、自分の背に覆いかぶさるものを背負いきれない。  それらは時に勲章という形でその人の胸に輝くこともある。だから、軍人の勲章を貶してはいけない。それはその人を支えるか弱い一本の枝でもあるんだからな。  さて、俺はというと。仲間がビール片手に噂を語る様子を遠巻きに眺めていただけで、話題には入ろうとしなかった。  ……戦況が進むにつれて、あまり前線には出なくなっていたんだ。ベテランを抵抗の激しい前線に出して、貴重な“備品”を失うことを、上は常常気にかけていたからな。  アズラーイールに出くわした、とフライト後興奮気味に話す同僚。その裏でアズラーイールに僚機を食われ、ロッカールームで呆然とする奴。  雄弁な口調で若手に噂を語って、失笑を買う上官。そしてその上官が次のソーティでアズラーイールに墜とされロスト、顔を真っ青にする若手。  葉巻の煙を燻らしながら、俺はそんなデキの悪いジョークを眺めていた。  収束に向かう戦況の中、アズラーイールだけが“戦場を生きて”いた。今ならそう言えるかもな。  しかしとうとう、俺は再びアズラーイールとなったアイツに出くわしちまった。  終戦間際、俺は北の地方都市を爆撃する爆撃機のエスコートミッションに就いた。  はっきり言って、必要の無いミッションだったと思う。北の勢力は目に見えて衰えていたし、その都市には稼動していない小規模な造兵廠があるだけで爆撃機を持ってして制圧する必要性は無かった。  そしてそろそろ作戦空域に入ろうとした時、レーダーに奴が現れた。密集編隊を組んでいる六機の機影。その真ん中の後ろを少し高い高度で飛ぶのがアズラーイールの特徴だった。  AWACSからの情報をうけて、俺達は空戦に入った。  寺西や中野は「こんどこそ墜としてやる」って息巻いてたし、沙山にいたっては「デジカメ忘れたあー!」なんてアホなこと言ってたなあ。 「チクショウ、もうお目にかかれないかもしれないのに」「帰ってから絵でも描けばいい」「死の天使? ふざけろよ」「俺達に喧嘩売ったこと後悔させてやらなきゃ」「そんなこと言ってるとあっという間にケツに火がつくぞ」「格闘性能ではこちらが上だ」「オイオイ、近接格闘に入るまでもねえよ」  ……皆は軽口を叩いていたが、俺は「生きて帰ろうぜ」って皆に呼びかけることしかできなかった。案の定、返事は無かったけどな。  敵はギリギリの戦況で、眼下の街を護ろうとしていた。主要な航空基地はあらかた制圧され、完調な機体はもう無いと言われていたくらいだ。それなのに、もう陥落寸前の地方都市を護るため彼らは飛んできた。  その状況がなにを意味するものなのか、俺達は解っていた。  戦場では後ろ盾無き者ほど、手強く獰猛な習性を見せる傾向にある。――特に、戦闘気乗りという人種においてはそれが顕著だ。  戦闘気乗りは己の命の重さを知らない、むしろ軽くあることを望むくらいだ。身軽な奴ほど自由に空を飛べるんだ。空っぽのまま上がって、羽の様に軽く舞って、帰投後にふかす一本の煙草でようやく身体に重さが戻る。そんなもんさ。  第一種射程距離。敵機6、距離230、長距離ミサイル発射、……3、2、1、0。命中せず。敵機尚も急速接近中。二手に別れ、攻撃姿勢。「ズールー4、遅れるなよ」「アイサー、ビアホールでまた会おう」「ビアホールで」  敵も俺達もより高い空へと昇った。そして月明かりの下、命がけの舞踏会が始まった。  さて、“横転コルク抜き”ってマニューバがあるんだ。その昔に伝説の飛行機乗りが編み出した技で、シザースに入ってこれをかませば百戦百勝っていうマニューバだった。……そして俺の得意技でもあった。  いち早くアズラーイールとペアになった俺は早速シザースに持ち込んだ。お互いの後ろを狙いながら、俺はタイミングを待っていた。アズラーイールの動きは前回よりもさらに洗練されていて、ある種の猛禽類を思わせるようだった。背筋が痺れるような感覚がしたね。  それでも俺はタイミングを逃さず、パーフェクトなコルク抜きを決めた。次の瞬間には目の前にアズラーイールがいて、照準を合わせてGUNを発射、それでキル(撃墜)できるはずだった。  しかし、それはかわされちまった。  こちらの機体が反転しきる前に、アズラーイールは俺の企みに気付いてブレイクしていた。やはり並みの反応速度ではなかった。  かわされたのは初めてでは無かった。前に第六十一攻空飛行隊の川崎さん――教導隊の先輩だ――と模擬戦をやったときにかわされたことがある。それでもって結局、最後まで川崎さんには勝てなかった。  かわされるだけならなんてことは無い。だけどアイツは、俺のコルク抜きをかわしただけでなく、一度動きを見ただけでそれを自分のモノにしていたんだ。  自慢じゃないが俺だって完璧にモノにするまで相当な時間を要したんだぞ。それにこの技を使えるのは連隊でもエースと呼ばれた奴らだけだったんだ。それをアイツはいとも簡単にコピーした。  夜空を駆け上がり、もう一度シザースに入った時、まるで俺をおちょくるようにかましてくれたよ。目の前から機体が消え、すぐにアラートが叫びだした。  俺はどうにか回避行動を取ってアイツの挙動を見た。そして三度目のシザース。目の前を飛ぶアズラーイールの機体はなんだか楽しそうで、とても人が飛ばしているとは思えない軽さがあった。  そして、俺は見た。  黒い前進翼のストレーキからたなびくベイパーが、淡い緑色に“輝いていた”のをこの目で見た。  直感的にそれが合図だと思った。  俺の体が何かに反応して、相手の動きも確認せずに反転した。全身の細胞が叫んでいた。仕掛けてくるぞ! ってな。  どう動いたのかも解らない。瞬く間に星空が目の前を流れ、反転した目の前にいたのは、こちらに不気味な黒い機首を向けたアズラーイールだった。  自分の身に起こったことを確認する暇も無かった。咄嗟にスティックを倒して衝突を回避し、すれ違う刹那。  俺はアズラーイールの真実を見た。  アイツの翼には天使が乗っていたんだ。  黒く大柄な機体の左のストレーキ。キャノピー(風防)に寄りかかるようにして、一人の女性が座っていた。  白い肌が月夜に映えて、背中には大きな一対の翼。それは淡い光をいっそう輝かせて――そうだな……まるで緑の炎が燃えているようだった。彼女の体の前には盾のように円いヘイロー(輪)が広がっていて、それも淡く発光していた。  彼女と、そしてパイロットがこちらに顔を向けた。  彼女は精練で無垢な笑顔をして、こっちを見つめていた。ヘルメットとバイザーで分らなかったが、パイロットも俺に微笑んでいたような気がした。  俺の機体のキャノピーを淡い光が包んで弾けた。  その全ては星の瞬きの様な短さだった。  手の触れそうな距離のところを、おびただしいキルマークに埋め尽くされた黒い機体が、深海魚の様な艶かしさで目の前をよぎった。  俺は楽しくて仕方なかった。  翼に乗っているのは小悪魔グレムリンなどではなく、纏うものはセントエルモの火ではなかった、さらにアイツはアズラーイールのような恐ろしい者でもなかったんだ。  振り向いた先の空には燐光を残して消え行くベイパーがあった。俺は夢中で叫んでいた。可愛い彼女とデートか! 羨ましいな! はははっ!  それから俺はもう一度、彼女の姿を間近で見たくて、必死にアイツを追いかけた。どうにかしてアイツの機動を乱そうとちょっかいをかけた。そのたびにアイツはすこし怒ったように、航空機ではありえないようなマニューバで俺を威嚇した。  そりゃそうだ。誰だって楽しいデートを邪魔されちゃあ怒るもんなあ。  それから俺はAWACSの指示も仲間の無線もまるっきり耳に入らなくて、ひたすら緑に燃える翼の軌跡を追跡し続けた。それはまるで夢のようだったな。  戦争だとか、街に零れる炎だとか、爆撃機のエスコートだとか。そんなものの一切が、どうでもよくなっていたんだ。  それは今までで一番長い間のファイト……いや、“ダンス”だった。もうどちらかの燃料がなくなるまで――もちろんビンゴフューエルまでだけどな――続くような気さえしていた。  いくら荒唐無稽な噂で飾られたアイツだって、乗っている戦闘機自体はこちらと性能のあまり変わらない機体だ。多分、燃料が少なくなくなったのだろう。  不意に翼を翻して――ハヤブサのようなありえないマニューバでだ!――ヘッドオン。ゆっくりとこちらに突っ込んでくる。  俺はまっすぐに構えて、ロックオンすることも無くそのときに備えていた。遠くでキャノピーが月光を反射したかと思うと、例の緑が迸った。  そして俺達は挨拶を交わした。  彼女は白い綿のワンピース――ありゃ絶対綿だね。そのくらい近かったんだ――をはためかせて、透き通った微笑で俺を見送った。大きな翼は実体が無いようで、いまだ炎の様に揺らめいていて。ヘイローはまばゆいばかりに輝いてた。  多分あのヘイローが彼女とアイツを護っていたんだろうな。なんだか細かい文字のようなものが、沢山ひしめいていたような気がする。思うところ、あれは魔法の呪文かなんかだ。  交差の瞬間、彼女は手をかざして、また俺のキャノピーが緑に燈り、そして硝子の様に光が弾けた。  それが彼女からの別れの挨拶だった。  夜空に掻き消えていく光を目で追っていたところで。俺もビンゴフューエルになった。いつの間にか作戦は終了していて。俺達はすぐさま帰還した。  基地に戻って、名残惜しさを感じつつ機体を降りて、シャワーを浴びて着替えをしても。まだ夢を見ているようだった。  そして少し時間を置いてから、デブリーフィングを終えた時。俺は生きている実感を噛締めることになったんだ。  そう――アイツは北のエースで、  それは誰もが認める事実であり、  同時に夢の様でもあって、  俺はさっきまでアイツと、そして彼女と踊っていた。  その間に、アイツは寺西と沙山を墜としていたことを思い出し、  そして川崎さんが誰に墜とされたのかを思い出して、俺はひとしきり嗤ったさ。 ――ある飛行気乗りの独白――