木に囲まれた石階段、古くて日陰のそれが苔に塗れていない理由を僕は知っている。滑 りやすい葉がない理由も知っている。その理由がため僕は一生懸命、走った。  油蝉が五月蠅いし、シャツは肌にくっつくし、肺は馬鹿みたいに痛かったが脚を止める わけにはいかなかった。ヒリヒリする太陽はもう頭上だ。少しの時間も惜しい。 「鼎さんっ!」  鳥居をくぐりながら目当ての名を叫ぶ。柱に刻まれた項羽神社という字は既に見飽きた。 僕の必死の問いかけにも関わらず、境内は静まり返って反応が無い。 「あれぇ?うん?」  汗を手で拭いながら見回すと、社の後ろに立つ煙が目に飛び込んだ。心臓が一跳ねする。 嫌な予感がした。 「まさかっ!」  麻痺していた疲れが急激に蘇りつつある脚に鞭打ち境内を走る。石畳はピカピカだ。こ れも、階段も鼎さんのお陰。彼女のお陰でここは奇麗なんだ。 「鼎さんっ!?」  片足でブレーキをかけながら社の裏に滑り込む。そこにあったのは、もうもうと立ち込 める煙、何かが焼ける匂い、そして苦しげな表情の鼎さん。 「ふうふう。やっぱり焼き芋はまだ早かったでしょうか、あら、邦訓」  あまりのことに僕は言葉を失う。この糞暑い中走ってきた僕より鼎さんは汗だくだった。 青々とした葉が燃え、小振りな芋が焼ける。そこには情趣も風情もなかった。 「はあはあ……な、なんで焼き芋なんですか……」 「実家から送られてきたんです。焼き西瓜もありますよ?あちち」  呆れる僕に鼎さんはアルミホイルに包まれた西瓜を差し出す。形が崩れた実が実にグロ テスクだ。いや、そもそも顔を真赤にしている人間を目の前にして、これを薦める意味が 分からない。  僕がこの不思議な人に出会ったのは高校受験の時だ。入試前夜に気が狂いそうになった 僕は散歩をかねて近所の項羽神社に祈願に来た。そこで暗闇の中、絵馬を整理する鼎さん と出会った。  ぱっちりとした目、長く結わえられた一本の黒髪、白と赤の袴、優しい言葉。今まで感 じたことがないような感覚だった。一瞬にして僕はその感覚の虜になる。幾度と無く聞い たことはあった、しかし体感するのは始めてだ。これが、  巫女萌えーー……。  しかも彼女は相当な天然ということが後々に分かり、益々僕は彼女に惚れていった。だ が僕にアンパンマンほど勇気がないためか友人関係で足踏みしている。 「まあ焼き芋でも胸焼けでもいいですけど、熱中症とかならないんですか?」  僕の質問は極当然と言えた。彼女の汗は尋常じゃない。プール上がりのように滴ってい る。色っぽいといえば色っぽいが。 「え?そういえば、お芋の食べ過ぎかと思ったけどなんだか気持ち悪、うっぷ」  鼎さんの顔色が唐突に悪くなる。なんて人だ。体温計で測ってみてから苦しくなるタイ プだな。 「うわ、早く日陰へっ!」  鼎さんの白い手を掴み引っ張る。我ながら自然な流れだ。グッジョブ俺。ただの変態だ けど欲望があれば正義だ。 「ああ、お芋……」 「まだ食うの!?ええいっ!あつっ!」  鼎さんのか細い声に押され、焼けた芋を回収する。僕も相当なお人好しだ。  芋を片手で抱え鼎さんを片手で引っ張り賽銭箱の前に連れて行く。そこは丁度いい段差 があって、屋根が日光を遮る涼しい所だ。僕も鼎さんもそこに座って話すのが好きだった。 「大丈夫ですか?熱中症は日陰に入るといいんですよ」 「そうなんですか?」  僕の言葉を聞き、急激に血色が良くなる鼎さん。なんとかに付ける薬はないってこうい うことなんだろうか。 「今日はいらっしゃるのが御早いですね。どうかされたんですか」  微笑みながら尋ねる鼎さんを見て、僕は忘れていた不幸を思い出す。口にしたくはなかっ た。できればその事実から逃避したい。でも脳内でいくら走ろうと、その事実は歴然と事 実としてあるわけで。 「鼎さん、母から聞いたんですが」 「あ、そういえば助けていただいてありがとうございました」 「い、いえ当然のことですから」  鼎さんが深々と頭を下げる。僕もそれに応えないわけにはいかない。折角、大事な話を しようと思ったのに。……わざと? 「母から聞いたんですけども!!」  身を乗り出し大きな声で再び切り出す。そんな僕に鼎さんはニコニコ笑って向き合って いた。 「はいはい?」 「海外に留学するって本当ですか」  言ってしまった。これで鼎さんが肯定すれば僕の唯一の大切な人が居なくなる。親?兄 弟?あいつらは鬼だ。  沈黙が走る。油蝉の鳴き声が大きく感じられる。答えを聞くのは怖い。でも知らないと 駄目なんだ。そうでないと、覚悟が出来なくなる。鼎さんが居なくなることへの覚悟が。 「えーっと」  鼎さんは首を横に振るでも、縦に動かすでもなく、かくんと傾げた。 「海外に留学って日本語おかしくありませんか?」 「んなこたあどうでもいいんですよっ!」 「はあ」  全力の僕の突っ込みにも鼎さんは動じない。悲しいかな慣れているからだ。 「いきますよ海外。昔から外の大学で勉強したかったんです」  しれっとそう言い放つ鼎さんの表情には、悲しみも寂しさもない。本当に嬉しそうだ。 この人は僕なんか……。 「そうですか。よかったですね。帰ってくるのは?」  言葉に気力が籠もらない。急激に心が萎えていく。鼎さんといるのに楽しくない。楽し まなくちゃいけないのに。 「四年後です。その頃には邦君も大学生ですね」 「ええ、もう大人です」  その時、鼎さんの隣には誰が居るんだろう。多分、僕ではない。 「そうですね。帰ってくるのが楽しみです」  使いふるされた文句を言いながら笑った鼎さんは果てしなく可愛かった。笑い声も、仕 種も、動きも、揺れる髪も。  僕が鼎さんに抱いていた愛しさを改めて確認する。抱きしめたら折れてしまいそうな身 体も、抜けて傍迷惑な性格も、包み込むような優しさも、全てが好きだ。  だのに僕は鼎さんをこのまま見送っていいのか?彼女は僕に無関心だ。玉砕の確立は高 い。でも、億万分の一の確率に賭けなくてどうする? 「どうしたんです?目が血走って怖いですよ?」  鼎さんがかけてくる言葉はあまりにも色気がなかったが、僕は決意する。段から腰を離 し、しっかりと二本の脚で立つ。そんな僕を鼎さんはほけっと見ていた。 「鼎さん」 「はい?」 「僕は、いや俺は鼎さんが好きです。結婚してください」  これが僕が考えれるだけの男らしい台詞だった。普段の僕を俺に変えただけの至極オー ソドックスな言葉。でも、一番気持ちは伝わると確信している。これで振られるなら後悔 はない、なんてことはないけど言わないよりマシだ。 「邦君……」  鼎さんも立ち上がり、僕の目をじっと見つめる。顔は赤らみ、目は潤んでいた。これは ひょっとしてオッケイなんじゃないか。 「鼎さ、おぶっ!?」  次の瞬間、僕の頬に衝撃が走り体は宙に浮いていた。空中で三回転し、地面に叩きつけ られた後も何が起きたのか理解できない。 「え?え?」  頬が熱い。感触から察するにビンタされたようだ。毎日のハードな掃除メニューは映画 よろしく鼎さんにすさまじい腕力と速さを培わせていた。 「やだ……もうっ!ヘンな冗談言わないで下さい。どきどきしちゃったじゃないですか!」  鼎さんの顔が真赤だ。今のは照れ隠しってことか。僕の瞳から一筋の涙がこぼれる。こ の人どこまで……。いや、泣いている暇は居ない 「違います。本当に、好きなんです」  顔を腫らした状態で立ち上がりながら言っても普通説得力はないだろうが、ビンタされ た時点で普通じゃない。 「へ?マジですか?」 「マジです。鼎さんは可愛いです」 「マジマジですか?」 「マジマジです。一生懸命、あなたを愛します」 「う……」  鼎さんの顔からもあっと湯気が立つ。夏だって言うのに面白い人だ。 「い、い、い、一生懸命ってのは、ほ、ほんとうは一所」 「いいんです。一生、命を懸けてあなたを愛しますって意味ですから」 「う、うう〜」  鼎さんが目に見えて動揺する。僕はというものの開き直っていた。誰だって一世一代の 大勝負を照れ隠しビンタで弾かれたら開き直る。 「で、でも私なんかより同世代の方が。それに邦君はまだ結婚できる御年じゃ」 「鼎さんが帰ってきた時には結婚できます。それに、鼎さんは僕にとって唯一、一番、大 切な人です」 「そ、そう……あっ」 「鼎さんっ!?」  鼎さんはそのまま倒れた。僕が動揺させすぎたのか、それともやっぱり熱中症が治まっ てなかったのか。抱きとめることが出来たのはよかった。そのままひんやりとした社の中 に連れて行き寝かせる。 「邦君……」 「ああ、よかった。意識があったんですね」 「ええ……。受けます」  鼎さんが決意に満ちた瞳で言い切る。僕には何のことか理解できない。何を受けるんだ ろう。 「あなたのプロポーズを受けます。ですから四年待ってください」 「ええ。ええ!?」  クールだ、クールになれ劉原 邦。今の鼎さんの言葉を複数の見地から解析するんだ。 まず、たぶんこれはアナグラムだ。おそらくポプローズっていう新しいバラのしゅるいで、 「あなたが好きです。ありがとう邦君。行く前に、勇気を出してくれて。年上の私が出さ なくちゃいけなかったのに」  熱っぽい瞳で僕を見つめながら、鼎さんが僕の手をぎゅっと握る。視界はグラつき、頭 は荷役っていたが僕はなんとか倒れなかった。 「そ、そうですか。僕のほうこそありがとうございます」  何度も告白のシミュレートをして、成功した僕はいつも飛び上がっていた。だけど、実 際はなんだか恥ずかしくなってしまって体がうまく動かない。 「うふふ。四年後、よろしくお願いしますね」  笑いながらそう言うと、握っている僕の手に更に手を重ねる。それは僕にとって最高の 契約書だった。 「……はあ。よろしくお願いします。でも、そうなると益々四年間待ち遠しいなあ」  そうだ。鼎さんがいなくなるということは巫女さんも消失するということだ。そこらの バイトなんかと違い鼎さんは一線を画す巫女ぶりだ。くそう、僕は宝を二つ失うわけか。 戻ってくるんだけど。 「そうですねえ。あ、でも私と入れ代わりで新しい巫女さんがいらっしゃいますよ」 「えっ!?」  本当なのだろうか。鼎さんのことだ、巫女さんじゃなくて美子さんっていう名前の叔母 さんだったり実は神主だったりしてもおかしくない。 「とても素敵な方です。ちゃーみんぐでしたよ」  チャーミングって……女性の言う可愛いは信用ならないっていうけどこういうのはどう なんだろう。まあ疑ってもしょうがないか。 「そうですか。でも、鼎さん以上の人はいません。早く帰ってきてくださいね」 「照れちゃいます。浮気しちゃ駄目ですよ?」 「ええ」  そうして、蝉の大合唱の中、熱さで歪む町並みをバックに僕たちは手を強く握り合った。  昨日、鼎さんが力の限り大掃除した階段をゆっくりと登る。空港で見送った鼎さんは笑っ ていたけどとても寂しそうだった。僕だって同じだ。でも、四年後に僕たちは幸せになれ る。それを思えば苦じゃない。  それはさておき、今日は新しい巫女さんが来る日だ。たしかに鼎さん以上の人はいない けど、興味がわくじゃない。浮気なんかしないけど、目で楽しむだけならいいじゃない。 別に視姦するわけじゃない。あー、ドキドキする。 「よしっ。こんにちわー」  階段を登りながら挨拶をする。すると鳥居のそばに立っていた一人の巫女さんが振り向 いた。  赤と白の袴は変わってない。鼎さんよりもスラッと長い脚、ぼんきゅっぼんのナイスバ ディ。高い鼻、そして金色の巻毛。ああ、なんて 「ヘロー?ナイストウーミーチュー。ワッチュアネーム?」 「……」 「ア〜ハン?」 「外人じゃねぇかあっ!」  僕の叫びは項羽神社中にこだました。  アメリカ人の巫女さんなんて情趣も風情もありません。鼎さん、早く帰ってきて下