昔はドラえもんを欲しいと思っていたが、今ではのび太になりたいと思うようになった。 「朝ご飯よー」 階下から聞こえる、母の優しい声で目覚めた。 埃をかぶった布団から身を起こして、部屋の隅に片付ける。 同時にテレビとストーブの電源を入れた。 扉からノックと「朝ご飯、ここに置いておくから」という母の声が聞こえた。 「沙耶も早く起きてきなさーい」 「はーい」 右隣の部屋で寝ている妹に声を掛けた後、階段を下りる音。 ここまでが母の日課。 その後、妹の部屋のドアがガチャっと勢い良く開き、ドタバタと鳴らしながら駆け下りていく音。妹の起床。 しばらくして、一階の台所から「いただきます」の声が聞こえたのを確認してから、廊下で寒そうに、白い息を吐いていたハムエッグとトーストを部屋に招いた。 ここまでが俺の日課。 明るい日差し。薄く塗られたマーガリンの味。 テレビでは、近所で起こっている連続放火事件のニュースが流れている。 いつも通りのつまらない日常。何も変わらない平凡な現状。 本棚に並んであるドラえもん。ここに漫画通りの生活はない。 朝は慌しい。どこの家庭もそうだ。 だが、二年前から引き籠っている俺には遠い世界だった。 妹が急いで学校の仕度をしている隣で、卵の黄身を潰しながらパソコンの前で寝そべっているのだから。 学校は辞めた。仕事はしてない。家からはおろか部屋からもほとんど出ない。トイレと、週一の風呂ぐらいだ。 ハムエッグも食べ終わった頃、 「お兄ちゃん、起きてる?」 と妹の声がドアからした。返事はしない。 「…お兄ちゃんは、自分から望んで部屋にいるんじゃないよね。学校も辞めたくて辞めたんじゃないよね」 学校を辞める時、両親には勉強をしたくないからと言った。妹にはいじめられたからと言った。 「私によく話してくれたよね。俺みたいな人間にはなるなよ! って」 妹は明るく可愛くて、看護士になりたい夢がある。俺のような無気力駄目人間とは違う。 「でも少し。ほんのちょっとなんだけど、学校をやめたいかなー…なんて最近思っちゃったりなんかして」 妹の日記にはある四人にいじめられている事が、事細かに書いていた。いじめている彼女らが、最近学校を休んでいる事も。 俺が勝手に読んでいる事を、多分妹は知らない。 「でもね…私、頑張るね。お兄ちゃんと約束したもんね。看護士になるって」 希望の無い俺の唯一の希望が妹だ。俺は落ちてしまったが、妹だけには羽ばたいて欲しい。 「…それじゃあお兄ちゃん、今日も沙耶は頑張ってきます!」 できるだけ明るくそう言った後、急いで階段を駆け下り「行ってきまーす!」と大きな声で叫んだ。何かを振り払うかのように。 ここまでが妹の日課。 妹は俺を美化して、それを支えに生きている。 まだ二年前の俺がこの部屋にいると思っているのだ。まだ漫画家の夢を持っていた頃の俺が。 そんな夢をまだ持っているなら、二年間も引き籠っていない。もちろん妹も分かっている。 同じ毎日の繰り返しが嫌だった。何も変わらない人生を嫌った。 いつも、子供の頃から大好きだった、ドラえもんが欲しかった。 だから漫画家になろうと思った。自分だけのドラえもんを作ろうと思った。 でも俺じゃきっとドラえもんが来たところで変わらない日常を送るのだろうし、漫画になるような面白い事も起こせないし起こらない。 深夜二時。 部屋に並んである液体の入ったペットボトルと、マッチとライターを持って、部屋を出た。 廊下は思った以上に寒かったが、着替えを取りに戻るのも面倒だったので、そのまま階段を下りていった。 靴を履いて家を出ようとした時突然 「こんな夜中に、どこに行くの?」 後ろから妹に声を掛けられた。驚いてしまって 「べ、別にどこでもいいだろ」 と返すのがやっとだった。 「…良い訳ないでしょ。お母さんも心配するよ」 「コンビニに行ってくるだけだから」 嘘だ。もちろん妹も気付いている。「…早く、帰ってきてね」と強く言うと、妹はこれ以上止めなかった。 のび太は運動も勉強もできない駄目人間だと思っていた。 だけど本当に駄目人間だったのは、努力するのび太をあぐらを掻いて笑っていた俺の方だったんだな。 今ではそう思う。俺は道具に頼らないと妹も救えない。大事なときも道具を使ってしまう、駄目な人間だ。 妹だけには羽ばたいて欲しい。最後の希望。 そう思いながら火を点けた。冬はよく燃える。服を着てこなくてよかったと思った。