友愛  立春の陽光を反射するミラービル。都会の喧噪の真っ直中にあるそれから、一人の老人と一人の青年が出てきた。  老人は杖を突いて、自らを待っているリムジンへと歩く。四十年かけて、この会社を大企業に成したのはこの老人だった。 「須藤会長。手をお貸ししましょうか?」  老人、須藤の後ろを歩く青年が、さも心配しているかのように声を掛ける。須藤はそれを無視した。  この青年は須藤が会社の黎明期に世話になった弁護士事務所の新人だ。所長の頼みで、顧問弁護士にしたが須藤には彼の気遣いが取り入りにしか見えず、鼻につく。  須藤はいつかクビにしてやろうと思いつつ、リムジンへと急ぐ。リムジンに近づくにつれ、そのボディに映る皺だらけの身体がハッキリと見えるようになる。齢六十、まだ若いと粋がれるはずの年なのに同年代のそれと比べて彼の身体は激しく劣化していた。  やはり若い頃の苦労が応えたのだろうか、と須藤は思う。高校を卒業して以来、ビックになるという子供じみたスローガンの下、懸命に努力して来た。その結果が金で、代償が若さだった。  そういえば、高校時代の、人生最高の親友はどうしているだろう……。  そんなことを考えていると、回り込んだ弁護士が素早くドアを開けた。その顔に浮かぶ笑みを一瞥し、須藤はシートに膝を掛ける。苦労は身長さえも奪っていた。  その瞬間、電子音が車内に響く。須藤は何事かと運転手に目を向ける。そこには青ざめた見知った男がいた。須藤の背に走る激痛。状況を把握出来ぬまま、須藤はその場に倒れる。 「会長!?」  弁護士の悲痛な、どこか籠もった叫び。薄れゆく意識の中で、ついに自分も死ぬのかと、須藤は自身を嘲笑っていた。 「須藤さーん、お食事でーす」 「はい……」  陽気な女の看護師に仏頂面で応える須藤。彼を襲った痛みの正体は自動ドアの誤作動だった。半可なハイテクが災いした。運転手が即刻、救急車を呼んだのが須藤の背骨はほとんど折れていた。  下半身不随になるかもしれないと医者は言った。取りあえず経過を見ると言うことで、彼は病院のベットで寝ているのだった。 「はーい。あーん、してくださーい」 「自分で食べられるからいいです」 「そーですかー? ご用があったらいつでも、申しつけて下さいねー?」  まるで電球が人間になったかのような明るさだ。スッキプしながら去りゆく看護師の足は二つの意味で地に着いていなかった。  昔は落ち着いた女性が好まれたものだが、時代は移りゆくものか。そう感慨に浸りながら須藤は病院食を口に運ぶ。  味気のない病院食を咀嚼していると、腕が味噌汁に当たり零してしまう。看護師の善意で熱々に保たれたそれは、膝の上に広がると悪意に変わる。 「あっつ!」 「どうした!?」  別の女看護師が駆け込んでくる。長い黒髪、高い身長。落ち着いて理知的な顔は、先ほどの者よりしっかりしていると感じられた。彼女は怜悧な瞳で状況を捉えると、素早く食事を脇にどかし、入院服を持ち上げる。そして、肌と服の間にタオルを滑り込ませた。 「熱くないか?」 「あ、ああ…」 「まったく。もっと注意して食べろ。怪我人なのだから」  看護師の男のような口調に面食らう須藤。須藤の担当である馬鹿のような看護師も頂けなかったが、こんな口調の女性も彼にとってはあり得なかった。 「着替えをする。この服じゃベトつくだろう」  乱暴に備え付けの収納から替えの服を取り出しながら、看護師は須藤を脱がし始める。仕事とはいえ、そのあまりの冷静さに再度須藤は面食らう。 「ちょっと待て! 担当を呼んでくれ! 彼女ならまだ」 「男がグチグチ抜かすんじゃない」  須藤の嘆願も、看護師に一蹴される。あっというまに下着のみにされた須藤は、恨めしげに看護師を睨む。そんな視線を無視して看護師は淡々と須藤に服を着せていった。 「若いのに手際がいい……だが恥じらいは持つべきだな。お嬢さん」 「私はお嬢さんなどと呼ばれる年齢ではないわ。もう六十になる」 「はあ?」  聞き返す須藤を無視し、看護師は満足気に立ち上がる。ベットに貼り付けられた患者識別の札を撫でるその姿は艶めかしい。 「えーっと、須藤さんか。お大事にな。うん? 須藤?」  眉を顰め、まじまじと須藤を見つめる看護婦。その目力に負けて須藤は顔を背けてしまう。 「な、なんだ?」 「お前……年はいくつだ」 「六十になるがそれが?」 「同じ年の須藤拓磨が日本にいる確率はいくらかな」 「はあ?」  二度目の聞き返しに須藤はうんざりしていた。ひょっとして頭が弱い人間を相手にしているのかとも思う。 「皆川聡という人間を知っているか?」  唐突に看護師の口から親友の名前が飛び出る。それは小中高と連れ添った腐れ縁の、悪友だった。高校を卒業してからは彼には会っていない。そんな親友の名前をこんな若い女性に聞かされたことに須藤は心底驚いていた。 「知っている……君は皆川の、孫か?」  須藤の問いに、看護師はほくそ笑む。そして女気あふれた仕草でベットに座り、須藤の頬を撫でた。須藤は柄にも無く照れる自分を恥じる。 「私が皆川聡だ。須藤」  愉快そうに笑う看護師、いや皆川。病室の空気が停止し、須藤の顔は惚けたまま動かない。彼の老いた脳は訳の分からぬ事実を受け入れるように柔軟さは、既に失っていた。