――――しん、と静まり返った冷たい廊下は不気味な闇に満ちていて、懐中電灯の光を飲み込んだきり吐き出さない。窓から入る硬質な月明かりは空気を凛と緊張させているようで、吸い込んだ息が喉と肺をチリチリと刺激する。  足は思うように動かず、手は懐中電灯を硬く握り締めている。ともすれば叫びだしそうに張り詰めた神経を必死に理性で押さえつけるが、漏れでた恐怖は汗となって全身をつたう。気温は25度をこえる熱帯夜であったが、背筋はゾクゾクと冷たい何かを感じ取っていた。  落ち着け、落ち着け。  彼女は自分自身にそう言い聞かせる。既に屋上にあった「しるし」はとってきた。後は校門まで戻れば、肝試しも終わり。友達と笑って帰ることができる。意識して楽観的な想像をする。そうやって気を散らさなければ、暗がりに何かが潜んでいるのではないかという妄想から逃れられないのである。いや、考えないようにしていてさえ、そこかしこから視線を感じる。背後に、頭上に、窓の外に、教室の中に、何かが棲んでいるのではないかと思う。目を見開き、牙を光らせ、手招きしているんではないかと思う。  歩き慣れているはずの廊下は、魔法をかけられたかのように長く感じる。引き伸ばされた廊下を歩いていると、まるで自分だけが異世界に迷い込んだように心細くなった。懐中電灯を小刻みに動かしてあちこちを照らし、闇に潜む何者かを追い払おうとする。何度も何度も光の帯で闇を切り裂く。  その甲斐があったわけでもないだろうが、彼女は何にも遭うことなく廊下を渡りきった。あとは一階まで階段を下りれば、目の前は昇降口。このナニモノかの棲処から逃げ出せる。  彼女は階段を下りていく。気こそ逸るが、足はもたつく。一目散に駆け下りたい衝動をぐっとこらえ、足を踏み外さないように気をつける。ゆっくりと、だが確実に、彼女は昇降口へと近づいている、――――はずであった。  はじめ彼女がいたのは3階である。そして、2階層下りた彼女は今、1階にいるはずである。しかし、彼女の目の前には3階と変わらぬ廊下が広がり、昇降口など影も見えない。しかもあろうことか、階段はさらに下へと続いている。彼女の学校に地下は存在しない。したがって、下りる階段があるということは、まだ1階ではないということだ。  階数を数え間違えたに違いない。彼女はそう考えることにした。もちろん、たった2階層下りる間に自分がいる階を間違えるなどありえないということは、彼女自身よくわかっていた。自分自身の理性の欺瞞に、感情が大きく波立つ。心臓が高鳴り、ズキズキと頭痛がする。懐中電灯を持つ腕が震え、階段を照らす光は頼りなげに揺れた。ガタガタと震える膝に力を込めて、再び階段を下りはじめる。きっと、きっと次こそ1階に下りられるはずだ。彼女はそう自分に言い聞かせて一心不乱に階段を下りる。踊り場をこえて下の階を見下ろしたとき、彼女の不安は的中する。――――そこに昇降口はなかった。  絶望に足首までつかりながら、彼女はもはや何階かもわからない廊下まで階段を下りた。下り階段は当然のように続いている。どこまで下りればいいというのか。絶望と不安に潰れかけた彼女の頬を、一筋の水滴が流れる。圧縮された不安と恐怖が、塩辛い水分となって目から零れたようだ。  いったいここは何処なのか。いつの間にこんなところに来てしまったのか。どうして帰ることができないのか。疑問と嘆きが氾濫する心は、もはや正常な判断力を保てない。彼女が生きていた世界の秩序は壊れた。彼女を包む空気は異様な雰囲気を帯びている。この場に留まっていてはいけない。本能がそう告げる。彼女は、取り憑かれたかのように階段を下りはじめた。下へ。下へ。下へ。  いったいどれほどの間下り続けているのだろうか。どれだけ下りても1階に辿り着ける気配はなく、むしろどんどん遠ざかっている気さえする。下へ。下へ。下へ。  階段を下りていた彼女は、唐突にそれに気づいた。気づいた瞬間怖気が走り、全身が総毛立つ。自動人形のように動いていた両足はぜんまいが切れたかのように固まり、両腕は自分の肩を強く抱き、服地ごしに肌に爪あとを刻んでいる。  ――――私のすぐ後ろに、何かいる。  いつからいたのかはわからない。何がいるのかもわからない。ただ、首筋に吐息がかかるような近距離に、得体の知れない何者かがいるというのは確信できた。視線を感じる。吐息を感じる。真後ろにいるのに、そいつが彼女と同じくらいの背格好でニタニタと笑みを浮かべているのもわかった。  振り返るか否か、彼女は悩んだ。背後に得体の知れないものがいる状況は恐ろしいが、振り向いて得体の知れないものと顔を合わせるのはもっと恐ろしかった。姿を見た瞬間、襲われるのではないか。  永遠にも思われる数秒間の葛藤の末、彼女は振り返らないことにした。決定的数秒間をごまかすために、努めてさりげなく歩き出そうとする。その震える1歩目が、次の段に触れようかというとき、背後の何かが吐息を漏らした。――――私を見なくていいの?  彼女の反応は極めてすばやかった。嘲りと嗜虐に満ちたその声が喋り終えぬ間に既に駆け出した。断末魔のごとき絶叫をあげて、無我夢中で階段を駆け下りた。階段を駆け下りて廊下を走り、手近な教室に飛び込んだ。教室の戸に鍵が付いていなかったのは幸いだったが、それは彼女が中に閉じこもるができないということも表した。どこかに隠れなければ。先ほどの何かが圧倒的な存在感を従えながら追いかけてきているのが感じられた。どこかに隠れなければ!  しかし、隠れるための場所も時間もなかった。音もなく教室の戸が開き、先ほどの何かが入ってくる。そのおぞましさから少しでも離れようと、彼女は窓際まで走りよった。窓を背に何かを見つめるが、うす暗い月明かりの世界では、その姿はよく見えない。彼女は、そのときになって自分が懐中電灯を失くしたことに気づいた。さっき走ったときに、どこかに落としたのだろうか。  暗いわね。――――追ってきたナニカがそう言うと、教室の蛍光灯がいっせいに光を投げ落とした。昼間のように明るくなった教室で、彼女はナニカの姿を見る。長い髪を下ろしている。俯いているためにその顔は前髪に隠れてよく見えないが、この学校の制服を着ていて、大きい指輪をしている。顔が見えないのになぜか笑っているとわかるその異様な雰囲気を除けば、その少女を、彼女は知っていた。当然だ。なぜなら、その少女は毎日鏡で見ているのだから!  声にならない悲鳴を上げて、彼女はその場にへたり込む。ガタガタと震えながら、何か言おうと口をパクパクと動かす。しかし、何を言いたいのかは彼女自身にもわからない。  そんなに怖がらないでよ。これはあなたの姿じゃない。――――少女は楽しそうに口にする。彼女が怖がっているのがよっぽど嬉しいらしい。加虐趣味を隠そうともしないねっとりとした口調で話しながら、少女はゆっくりと近づいてくる。  そんなに汗をかいちゃって。暑いなら窓を開けましょうか。――――音もなく窓が開いた。この世のものとは思えない、生臭い空気が教室内に入り込んでくる。彼女は激しく咳き込んだ。涙が止まらない。  あら、汗だけじゃなくて涙まで出しちゃって。まだ暑いのかしら?――――心臓を締め付けるような声音は、もう彼女まで数歩のところから発せられている。泣きながら、咳き込みながら、彼女は這いつくばって後ずさろうとする。  何処へ行こうというの? そちらには窓しかないわ。――――――――窓枠に手をかけて何とか立ち上がり、開いた窓に寄りかかるようにして少女と対峙した。逃げなければ。とにかく、逃げなければ。激しい心音と浅く不規則な呼吸は不協和音を成し、恐怖と後悔と絶望の三重奏をより深く奏でる。  さぁ、踊りましょうか。どうせ、貴方はここから出られない。――――少女が顔を上げ、その表情が見えた。そこには明確な悪意と嘲笑がある。顔のつくりは彼女と全く同じなのに、その表情は見たことがないものだ。血走った片目は見開き、もう片目は細め、唇はこれでもかとめくれ上がり、不気味な笑みを浮かべている。長い髪が額や頬に張り付いていて、まるで血管が黒く浮いているようだ。  少女が伸ばしてきた手から逃れるように、彼女は仰け反る。窓枠をつかむ手に力が入る。後ろには何もないから、この手を離せば真っ逆さまだ。あれだけ階段を下りたのに、下を見れば地面はまだ遠かった。もう一度彼女の手を見る。その指に嵌められた指輪は、彼女が今嵌めているものと同じだ。父親の形見の、特別な指輪。世界に1つしかないはずのその指輪を、どうして少女が嵌めているのか。  そんなに乗り出すと危ないわ。――――少女が嗤いながら言った。――――だって、悪い子に突き落とされちゃうもの。  瞬間。信じられない速度で伸ばされた少女の手が、彼女の胸の中心を手のひらで突いた。激痛と衝撃に耐えられなかった彼女の手は窓枠を離し、バランスを崩した彼女は後ろに倒れこむ。  視界が一回転して、落下の不快感に吐き気がした。地面に激突するまでの短い時間に、彼女は一度だけ少女と目が合った。  少女は悪魔のように凄絶な笑みを浮かべ、ヒラヒラと指輪を嵌めた手を振っていた。その手は、ついさっき、彼女を突き飛ばした手だった。  翌日、地元の新聞には、ある記事が掲載されていた。  『きのう深夜、市内XX中学校で、XX XXさん(14)が校舎の屋上から転落して死亡した。警察の調べによると、XXさんは「肝試し」として友人とともに同学校に行ったのだという。友人を校門に残し1人で校舎内に忍び込んだXXさんは、校舎の屋上に上がると、校門から見ていた友人たちの目の前で校庭へと飛び降りた。屋上にはXXさんが身に着けていた靴が置いてあったが、遺書は残されていなかった。また、XXさんが学校に持ち込んだ懐中電灯は屋上ではなく3階に投げ捨てられていたなど、不可解な点も多い。また、現場を目撃したXXさんの友人の中には、「誰かに突き飛ばされたように見えた」と証言しているため、警察は事件事故の両面から捜査をしている。』    蛇足ではあるが。  検死の際、彼女の胸に人の手のひらを押し付けたような陥没が発見された。