第一話 天上の姫  真夜中の不気味な静けさというものは、誰にでも不安を与えるものだ。現に、道を歩く俺自身もちょっと怖がっている。  何故、俺がこんな夜更けにコンビニまで出歩いているのかというと、ここには重大な理由があるからだ。  我が愛すべき妹、みのりが熱を出したのだ。それも、三十七度という超高熱。  俺ならばその程度、風呂にでも入って誤魔化してしまうけれども、みのりは体が超絶に弱いんだ。だからこうやって俺がビビりつつ歩いてる合間も病に魘されているに違いない。  ああ、待ってろよ、みのり。兄さんが必ず助けてやる!  とは言っても不気味で仕方が無い。夜道なんて歩き慣れているはずなのに、嫌な寒気がする。幽霊がいかにも好みそうな雰囲気だ。  電柱の灯りは薄暗く、行く道の殆どの外灯が、同じように消えたり点いたりと繰り返している。見上げれば月も出ていない。ただ、真っ暗な空が広がっているだけだ。  ホウホウと不気味な音がする。まるでここが深い森の中であるかのような錯覚に陥った。  ラジオでも聞きながら来ればよかった。早いところコンビニまで行っちまおう。  そうして走り出そうと足を上げたときだった。  ――――コツ。  後ろで音がした。それは女の人のヒールが地面を打つ音に似ているような気がする。  きっと気のせいだ。こんなところで、女の人に跡をつけられるなんて嬉し恐ろしな体験をするはずがない。気のせいだ、気のせいだ。  恐怖を振り払えるよう、大きく一歩踏み出す。そのまましばらく走った。ひたすら真っ直ぐ進み続ける。コンビニはここを真っ直ぐ行ったところにあるのだ。  地面を蹴ることに集中しているせいか、不気味さや寒気は感じない。いくつもの電柱を追い越し、コンビニ目指して走りに走った。  どれだけ走ったか分からない。息の切れるのを感じる。 「もう、大丈夫だろう」  膝に手をついて立ち止まった自分に言い聞かせると、再び歩き出した。ヒールを履いているなら、こんなに走れるはずが無いんだ。そうしてゆっくりと、電柱を追い越した。  相変わらず同じように点滅する外灯が、薄暗く夜道を照らしている。点灯しきらならい中途半端な灯りが、ゆらゆらと揺れることで、恐怖を煽っているかのようだ。  違和感がまた込み上げてくる。  よく考えてもみろ。どうしてあんなに走ったというのに、まだコンビニが見えてこないんだ? どうしてそこに同じ電柱があるんだ? なぜ外灯の点滅が全て同じなんだ?  ――――コツ、コツ。  背筋に悪寒が走る。  追いつかれた! あれだけ走ったというのに追いつかれたのだ。  どういうことだ? 走っている足音なんて聞こえなかったし、だいたいヒールであんなに走れるものか!  途端、不吉な予感が脳裏をよぎった。  もし、あの音が足音ではないのだとしたら? 俺に気付かせるためにわざと鳴らしているのだとしたら? 俺の足は、そもそも進んでいないのだとした?  覚えず足が止まる。  ――――コツ、コツ、コツ。  ああ、やはりそうだった。あれは足音なんかじゃない。俺を殺すための――――。  身の危険を感じ、振り向いた。初めからこうしておくべきだったのだ!  まず、銀色の杖のようなものが目に入った。それは、ゆっくりと、同じ速さで地面を打ち、忌まわしげな音を立てている。  ――――コツ、コツ。  紛れた闇の中から、人の姿が浮かび上がった。全身を黒ずくめにした女だ。その表情は――嗤っている。 「ようやく気付いてくれたのね。――くすくす」  男の精を舐め回すような、いやらしい女の声がする。  俺はその響きに恐怖した。目の前に居るのは常人ではない。人であるかどうかさえ怪しい。どこか、人間離れした何かを感じる。  姿だけで身の危険すら感じさせているのだ。逃げなくては殺される!  しかし、足が動かない。恐怖で竦んでしまったのか! この両足め!   ああ、振り向かなければよかった! そうすれば、恐怖する間も無くあの世へ行けたかもしれないのに。  駄目だ駄目だ。そんなことを考えちゃいけない。今は、どうやって生き残るのかを考えるべきだ。  目の前の女は、その表情のまま、杖の先を俺の方へと向けてきた。突き刺せる鋭利な先端と、大きな刃がついている。なるほど杖というのは間違いだった。これはハルバートだ。  その矛先は外灯の仄かな光を反射して、ギラギラと俺をにらみつけていた。  圧倒され、思わず後ろ手に倒れてしまった。恐怖で竦んだ両足を引きずり、少しだが後退する。  到底逃げることなどかなわない。喉元に刃が突きつけられた。 「感謝なさい。あなたは私の最初のエモノとなるの。こんなに可愛い男の子が最初に掛かるなんて、運がよかったわ」  刃が喉元を離れた。それは女の胸のあたりまで上がって行き、 「――死ね!」  鈍く光る剣先が、俺を目掛けて振り下ろされた。  その瞬間、すなわち槍が眉間を貫くまでの、刃が俺を死の淵へ突き落とすその瞬間が、ゆっくりと、ゆっくりと流れて見えた。  ああ、俺は死ぬ。手で払おうにも間に合いそうにない。  俺は目を瞑った。これで自分を殺している者の表情を見ずに済む。みのり、ごめん。   大きな金属音が鼓膜を叩いた。  これは俺の眉間を貫いた音か? いや、違う! 「な、何ぃッ!」  女が頓狂な声をあげた。  恐る恐る目を開く。刃は俺の体から逸れ、地面に突き刺さっていた。その近くにきらきらと光る何かがある。それはカードのようだ。桃色に塗られた中に、銀色のティアラが描かれている。こんな小さな物で、あの刃を弾いたというのか。  それを物語るかのように、間近の女の表情は、驚愕の余り青ざめていた。  俺はこの機会を逃すまいと、素早く飛び退いた。  女は俺を気にもとめず、刃を持ち直し、辺りを警戒している。 「卑怯なッ! 誰だッ! 出て来い!」  女の呼びかけに応えるかのように、暗闇の中から声がした。 「武器も持たぬ人を襲っておいて、卑怯とはよく言った!」  声のした方へと視線を移す。  確認できたのは、二人の女の子のシルエット。その影は、どこかで見たことのあるような形をしていた。 「―――よし! いくよ、いくよっ!」  二つの影はギュッと手を繋ぎ、そして離した。飛び上がるように天を仰ぎ、そして叫ぶ。 「ディバインセレスティアルチェンジ!」  掛け声と共に二人は優しい光に包まれた。二人の顔がよく見える。――――ああ!  背景はメルヘンに変わり、二人の体は宙を舞った。そのまま空中に留まり、二人の服が抽象化されてゆく。見たいトコが見えないのはお約束か。  二人は両手を胸に当て、それから大きく広げた。そしてゆっくりとその場で回り始める。  同時に弾けるような音を立てたかとおもうと、きらきらという音に乗せ、胸から腰の辺りにかけて、肩から腕にかけて、なぞるように服が、スカートがそこに具現化していく。  くるくると回るほどに、服が装着されていく。それは遠心力で着替えているかのようだ。  二人の豊かな胸には大きなリボンが据えられ、それらは一緒に揺れていた。  袖が現れたところで回るのを止め、カメラ(俺)目線で笑顔を突きつけてくる。  空中で踊るようにステップを踏んだかと思うと、右手で右の踵を軽く叩くと靴が現れ、同じようにして左足にも靴が現れた。  再び両手を胸に当て、二人向き合ってウィンクした。  すると、睫毛の先から弾けた光が、髪にかかるとヘッドドレスが現れ、唇にかかると綺麗に彩った。そして耳には可愛らしいイヤリング。  今度はお互い両手で手を繋ぎ、そこにもまた飾りが添えられた。  手を離し、優雅に一回転すると、一人には黒のローブと桃色できらきら光るステッキが、もう一人には白のマントと羽のついた可愛らしい剣が、それぞれ据えられた。  そのままゆっくりと地面に足をつけ、二人は口を開いた。 「天上の姫騎士(プリンセスナイト)、ユウマリアさんじょうっ!」 「天上の姫魔術師(プリンセスメイジ)、アンチェリカ参りますわ!」  なんだか聞き覚えのある名前を告げると、剣を持っている方が前に出た。ユウマリアと名乗り出た方だ。 「穏やかな夜を荒らす悪の根源! たとえお腹が空いたとて、わたしは断じて許さない!」  ビシッと敵を指差してポーズを決める。  そして杖を持っている方が前に出た。こっちがアンチェリカか。 「いけない子にはお仕置きあるのみ! 命惜しくば観念なさい!」  そして二人が同時に叫ぶ。 「―――汝が愚昧卑劣の所業、地獄で後悔するがいい!」  ファンシーな格好をしておいて、どっちが悪役か分からないような言葉を吐いた。しかし、二人そろってポーズを決めて言うもんだから、なんだかカッコいい。  俺は今、日曜朝八時半頃に興奮している子どものような気分だった。そして、がんばれ! などと思いつつ、俺の体は少しずつ彼女らから離れ、安全を確保していた。  さっきの台詞で少しは怯んだかと思ったが、圧倒的な決め台詞にも負けないのが悪役というもので、 「ふん。姫だか亀だか知らないがね、あんたらこそ、私の狩りの邪魔をしたことを後悔することになるよ!」  そう吐き捨てると槍を構え、二人の姫に向かって飛び込んでいった。  姫騎士がそれを剣で受け止める。同時に姫魔術師が後ろに飛びのき、杖を構えた。  前衛と後衛に分かれる、それが彼女らの立ち回りなのだろう。  静まり返った夜道に、激しい金属音が鳴り響く。剣戟の合間を縫うように魔法の矢を飛ばし、相手に反撃の隙を与えない。堪らず女は飛びのいた。 「おのれ!」  すかさず姫騎士が飛びつくが、女は大きく飛び上がってそれをかわした。  女はそのまま空中に留まり、左掌を二人に向ける。 「死ね!」  狂気混じりの声を上げ、左手から無数の光弾が放たれ、豪雨のように降り注いだ。 「きゃああああーっ」  姫騎士が悲鳴を上げる。もう一人の姫が傍に駆け寄り、杖を振りかざした。 「永劫なる安寧を築きし天上の盾よ! 我を護りたまえ!」  二人の姫の前に、光の障壁が形成される。頭上から降り注ぐ紫色の光弾を弾いている。 「そんな薄皮一枚で、完全に身を護れるとでも思っているのか!」  おぞましい笑い声のあと、降り注ぐ光の雨は強くなる。 「ま、負けませんわ!」  脂汗を浮かべた姫魔術師に対し、女は余裕の笑みさえ浮かべていた。 「この程度で精一杯とは、笑わせてくれる」  槍の矛先を二人に向けた。剣先が光る。それは光球となり、だんだんと大きくなる。 「これで終わりだよ!」  光球が弾けた。同時に剣先から、雷撃のような光線が放たれた。それは障壁にぶつかり、激しい音を立てて貫かんと攻め立てる。 「きゃああああああっ」  ついに障壁が破れられ、二人に容赦なく降り注いだのだ。  爆音と土煙が空間を包む。  二人は? 大丈夫なのか?  土煙が風の中に消える。中から二人の姿が現れた。  服は所々破かれ、全身が擦り傷だらけだ。血の滲んでいる所も多々ある。  二人は、杖を、剣を地面に突き立て、必死に体を支えていた。 「あれで死ねないとは恐れ入るわ。だが! 死ぬまでの時間が数秒延びただけの事ッ!」  再び槍を構え、剣先に光が灯る。――――逃げるんだ! 「わたしには、負けられない理由があるの、あるんだもんっ!」  突然、姫騎士が全身を辛そうに動かし、立ち上がる。そして剣を地面から抜いた。  それに応じるかのように、隣の姫魔術師の体が動く。 「ええ。私たちには負けられない理由がありますわ」  二人は武器を空に掲げ、手を繋ぐかのように、先と先を合わせた。そして二人、声を合わせ高らかに叫ぶ。 「好きな人を護るために!」  剣と杖の衝突地点がまばゆいほどに光り始めた。  突き刺す天上剣と天上の杖が合わさる衝突地点、かなり自分を包み込む絶対零度ってか。 「いくよ!」 「ええ!」   心と心で呼応した二人の力は一つとなる。  姫魔術師が詠唱を始めた。 「闇に堕ち、善良なる羊の肉を欲する者よ。彼らの悲鳴を聞き、後悔と混沌の中に死ねばいい!」  相変わらず、どっちが悪役かわからん台詞だ。  続いて姫騎士が同じような言葉を吐く。 「不穏に招かれ、平穏に招かれざる汝、閻魔の前に跪き、無様に許しを乞いなさい!」  そして、二人合わせた剣先を頭上の敵に向けた。集まった光は、暗黒へと色を変えていく。それは竜巻のように旋回しながら肩から腕、剣先までを黒く包んだ。  そして剣先で収縮する。  二人は、愛と勇気と正義に満ち溢れた声で吼えた。 「ダーク・インフェクション!」  辺りに迸る衝撃波、伴い巻き起こる暴風。傍で見ている俺でさえ体を支えるのがやっとだった。そして、暗黒の光が雪崩のように敵に向かって驀進する。 「小癪な!」  女も負けじと応戦する。光と光のぶつかりあいだ。眼前が激しく揺れる。  しかし、悪が正義に勝てる道理など存在しない。勧善懲悪。これが世界の法則であり真理なのだ。そう、正義に糾弾された時点で女の命は既に終わっていたのだ。  二人して力を込める。 「はああああああっ!」  二人の力は女の放つ光を押し返していく。  それは留まることを知らず、女の体を飲み込んだ。 「こ、この私がああああああっ」  女は暗黒の波とともに消滅した。  二人は静かに武器を下ろした。同時に体が崩れ落ちる。立っているだけで精一杯だったのだろう。それでもあんなに強力な力を発揮したのだ。底知れないしたたかさを感じた。 「強敵でしたわね」 「うん。でも、でも、まけなかったよ!」  達成感に溢れた顔で微笑みあった二人は、元気を取り戻したのか俺の方へと駆け寄ってきた。ただでさえ目の遣り場に困る服だというのに、所々破けているもんだから堪らない。 「大丈夫でしたか? 本当に危ないところでしたわ」  頬が熱くなるのを感じたが、俯く事で誤魔化した。 「うん。ありがとう。助かった」 「遥夏はそんなに感謝しなくていいんだよっ! だってね、だってね! これはわたしたちの使命なんだからねっ! ふふ」  元々正体はバレバレだけれども、こうまでボロを出されては我慢できない。すこし突っ込んでおくことにした。 「どうして俺の名前を知っているんですか?」  あくまで正体を知らないフリだ。故に敬語である。 「あ! えへへ。実はね、わたしの正体はねー」 「ゆ、夕ちゃん! それは内緒にしなくてはいけませんわ!」  今のは聞かなかったことにしてあげよう。 「あっ! そうだったよー。ほんとはねっ、姫だから遥夏の名前なんてお見通しなんだよっ。姫はね、すごいんだよっ! ふふふ」  いくら着飾っているとはいえ、地が出すぎだ。それでも気付かぬフリをするのが友情ってもんなのかなあ。一応、命の恩人だし。 「なるほど。姫というのは凄いんですね。それで、あの女の人は何だったんですか?」  二人が教えてくれたことには、あの女は不穏を齎す者だとかなんとか。どうやら世の中には不穏が大好きな奴らの集まった悪の組織というものがあるらしく、そいつらは人間の命の力を集め、世界を手中に収めようとしているらしい。それを阻止するべく天から力を授かった二人の姫が、彼女たちだったというわけだ。  俺があれだけ走ったのに、同じところにいたというのも、あの女の結界のなかに入り込んでしまったからだという。その結界は蟻地獄の巣のようなもので、第三者の力を借りなければ脱出することは出来ず、結界の主によって食われてしまうのだ。 「あなたはとても狙われやすい体質です。原因はその顔ですわね」 「ほんと、おいしそうな顔してるよねっ!」  という調子で、俺はこれからも狙われる可能性があるらしいのだ。  とりあえず夜道を歩くときは央菜を連れて歩くことにしよう。あいつと一緒なら、たとえ使徒が襲ってこようと怖くはないのだ。 「ユウマリア、ここの平穏は取り戻しました。次の不穏に平穏をもたらすため、参りましょう!」 「うん! しょうねんよ! わたしは常に平穏と共にある。もしもあなたに不穏が訪れたなら、わたしたち、姫をよびなさいっ!」 「少年よ。私たちはもう行きます。――――あなたの平穏がずっと続きますように」  二人の姫たちは俺にそう告げると、優雅に飛び去っていった。  残された俺は、なんというか不思議な孤独感に苛まれた。中世ヨーロッパの大貴族の社交界の場に、現代の日本人である俺が紛れ込んで盆踊りをしているような気分だ。  あれこれ悩んだところで仕方が無いので、コンビニ目指して足を進めることにした。  その結界というものは解けてしまっているらしく、少し歩いたところにコンビニをちゃんと発見できた。時計を見ると、家を出てから数分も経っていない。二十分くらいは歩き回っていたような気がするのに、時間すら結界の中では繰り返していたのだろうか。  コンビニに無事に辿り着いた俺は、置いてある中で一番高い風邪薬と、みのりの好きなお菓子や水分補給によさそうなスポーツドリンクなどを選び、買い物籠に入れた。  購入すると、財布の中は空っぽになってしまった。これも愛する妹の為だ。致し方ない。  帰り道、長かった往きの道のりは嘘のように思われた。家にはすぐに辿り着いたのだ。 「おかえり〜、ハルちゃん」 「ただいま。みのり、大丈夫?」 「大丈夫に決まってるでしょ。ただの微熱よ」  微熱だとか悠長なことをほざくこの親は放っておいて、みのりの部屋へと急いだ。 「みのり、入るぞ」  入ると、病に魘され、苦しそうに顔を火照らせている妹の姿があった。 「に、兄さん――――」  呼びかけられた声に元気が無い。このまま死ぬとか絶対やめてくれよ! 「ほら、薬を買ってきたぞ。それと、お前の好きなもんとか沢山買ってきた」 「あ、ありがとう。なんか、兄さんの顔を見たら少し楽になりました」 「何言ってるんだよ。ほら、薬」  水と薬を差し出した。みのりはそれをゆっくりと飲み干し、再びベッドに横になる。  俺を安心させるためだろうか、気丈に微笑んで、感謝の言葉を口にした。  それから話をしながらしばらく看病をしていたのだが、風邪薬についての話になったとき、事件は起きた。 「兄さん。私には、もっと風邪に効くお薬があるんです」 「ん? それは是非教えてくれよ。今から買ってきたっていいんだぞ」 「それは、その――――」  みのりが俺の首に腕をまわし、そっと目を瞑った。そのまま少しずつ顔を近づけてくる。  ――――これって?  何が何だか分からなくなる。  ゆっくりと火照った顔を近づけてくるのは妹で、その妹は今三十七度の熱病という超重病人で、俺はそんな妹を思いやるすばらしい兄貴であって薬を買いに行くとき何故かよく分からんことに巻き込まれてそれは全部みのりのためであってそれが、えっと、いやいやいやいや、俺の唾液が風邪薬になんてなるわけないだろう! 俺まで発熱してしまいそうだ。別にそれはいいのだが。もしかするともしかするかも? 兄妹の愛は風邪だって跳ね飛ばすかもしれない。それに燕の巣ってもんがあるが、アレは唾なんだろ? だったら俺の唾だってそんくらいの価値はあるだろう。口の中に舌を這わせて、みのりにとり憑いたバイキン共を洗い流してやるんだ。兄妹の熱い接吻だぜ? 効かない訳が無いじゃないか! でもでもでもでもそれは倫理的にどうよ。ってもう!  可愛い顔しやがって。あの悪の組織はこんな顔を美味しそうと見るに違いない。  ええい、ままよ!  俺は妹の願いに応えるかのようにゆっくりと顔を近づけていった。  眉間に槍が襲い掛かってきたときのことを思い出した。あれも、同じくらいゆっくりと流れたものだった。  唇の先と先が、少し触れた時だった。 「みっのりちゃ〜ん! おかゆ持ってきたわよぉ〜。って、あらあらあらあら。ふふふ」  突然母さんが入ってきたのだ。思えばドアが開けっ放しだった。  慌ててみのりから顔を離すと、ベッドに寝かしつけようとしていたフリをした。 「ああああ。母さん。入ってくるならそう言ってよ。あはは」 「邪魔しちゃったかしらねぇ。兄妹仲が宜しくって結構なことだわぁ」 「うー。母さん、私ちょっと恨みます」  もうちょっとだったのに、という小声が聞こえたような気がした。  それからのみのりは、なんというかぶっ壊れていた。口移しでおかゆを食べさせてくださいだの、俺の口元におかゆがついているから舐め取ってあげますだの、高熱で頭が少しやられてしまったようだった。早く元気になってくれ。 「それじゃ、ぐっすり眠るんだぞ。――――おやすみ」 「兄さんが添い寝してくれたら、私、ぐっすり眠れます!」  またまた、何を言い出すか、この愛妹は。 「仕方ないな。本当にそれでぐっすり眠れるんだな?」  病人の願いである。聞き入れないわけにはいかなかった。 「はい。これから毎日一緒に寝たって構いません!」  みのりは高熱で正常な思考が出来なくなっているのだろう。 「兄さん。夫婦の営みって知っていますか? 二人で裸になって添い寝するんだそうです。そうするとね、愛の結晶が育まれるんです。私、そうすれば絶対元気になります」  遂に哲学的なことまで口走り始めた。脳細胞まで侵食されているのは確かなのだろう 「さっさと風呂に入ってくる。育むのはそれからにしよう」  俺は真剣に返事をして、部屋を出た。  素早く風呂に入って、みのりの部屋に戻ってくるとそこには既に眠ってしまっているみのりが居た。病魔は確実にみのりを蝕んでおり、きっと話すのも精一杯だったに違いない。  しかし、寝顔をよく見てみると、苦しんでいる様子なんて微塵も無い。 「仕方ない奴だ」  約束通り、みのりと同じ布団の中に横になった。  すうすうと寝息を立てているのが分かる。 「おやすみ」  そう耳元で語りかけ、俺は目を瞑った。