泣いている声がした。  いや、それは『声』なんて形容するには酷く人間らしくない――獣の其れに似ていた。暗闇の中で目を開けたり閉じたりする不毛な行為をしていた私は、その鳴き声の方向へと足を向ける。  何も見えない世界。そこを歩く私。  しかし一歩、また一歩と歩を進めるごとに、自分は本当に歩いているのだろうか? そんな疑問に襲われる。変化の無い風景や、肌に感じない空気の温もりは私自身の体の動きを保障してはくれない。だとしたら、こんな場所は人間の住む場所ではないなと、この場所に立ちながら自嘲的に笑ってみた。  声は次第に大きくなる。それだけが、私が確かにここに存在しているということと、歩き続けているということの証明となった。もしこの声すら存在しなかったら、私はきっと発狂し闇の一部になっていたに違いなかった。そうして、同じようにこの世界に放り出された見知らぬ人間の四肢に絡まり咀嚼するのだ。その様は、昔見たホラー映画の光景に良く似ている。  不意に、光が生まれた。『不意に』というのは言い得て妙かもしれないが、まさしく異次元から空間を引き裂いてやってきたかの如くその赤ん坊が出現したのだ。  そして、泣き声の主の正体も分かった。一人の赤ん坊がそっと地面に横たわっていた。  光は、まるで生命の暖かさというものを象徴しているかのごとく、淡く優しくそして絶対的に存在し、赤ん坊を守っていた。光の揺り篭――一瞬そんな単語が頭を過ぎった。 「それにしても、どうしてこんな場所に赤ん坊が」  こんな場所というのもまたおかしなもので、私自身ここが何処なのか、理解できていないのだ。そして、そのことをさして重要視していないというのもまた不思議な話だった。  私は鳴き続ける赤ん坊の表情を覗き込む。まだ、人間と獣の間を行き来しているかのようなその表情。しかし、私はその顔に違和感を覚えた。 「動いていない……」  目。顔。体。赤ん坊を構成する全てのパーツが、鳴くという動作を行うための決められた動作を行っていない。  涙を流さない。  目を瞑らない。  涎を出さない。  鼻水が出ない。  体が震えない。  鳴き声だけが、獣の其れだけが聞こえ続けるだけで、まるで人形のようだった。  私は一瞬この赤ん坊は本物の人形であり、何処かに音源が存在しているのではないかと考えた。だが、鳴き声の発せられる場所が赤ん坊であると理解すると、今度はこれが実は人形でその中にスピーカーが埋め込まれているのではないかと考えてみた。しかし、その体は合成樹脂で作られたような安物のプラスチックではなく――温かみに欠いてこそいるが――確かに人間の肉だった。  一体、私はどうなったのか。まるで、失敗作のグリム童話の中に放り込まれたような気分だった。しかも、赤ん坊の鳴き声は未だ続いており、私の気分をさらに滅入ったものにさせていく。  何が、一体、どうして。私は自分の着ている服に何かのヒントがあればと弄ってみた。すると、上着の内ポケットの中に一枚の紙があることに気づいた。白くコピー用紙に近いそれは、綺麗に二つに折りたたまれた状態でそこに入っていた。  捲ってみるとそこには、緑色の文字で「生まれ変わりたいか」とだけ書いていた。  冷や汗をかいた。体が震えた。何故かは分からない。その言葉は私を恐怖させる。  気持ち悪いものにでも触れるかのように、その紙を丸めて闇の中に放り込む。餌を投げ込まれた彼らは一瞬でそれを掴み取り、消滅させてしまう。  しかし――そうしてもなお、私の心は怯えていた。  ――分かっているのだ。先ほどの言葉が、私の意識の中の何かを目覚めさせてしまったのだと。  浮き上がる、息遣いが聞こえる。意識の深海を泳いでそいつらがやってくる。小さく、醜悪で、それでいて大多数の其れが確かにやってくる。  蓋を閉めろ! 私は、決して響くことの無い声で叫ぶ。それを一人でもこちら側に、侵入させてはいけない。それを外に出してはいけないのだ。  その強迫観念だけが、私という木の幹を支えていた。    ――コポッ  しかし、彼らの力はかくも巨大だった。彼らは私の精一杯の力など簡単に蹂躙し、侵入してくる。  初めて父親に打たれたときの記憶。子供特有の駄々をこねて、父親の逆鱗に触れ、思いっきり頬を叩かれた。昔の記憶であるというのに頬が痛い。  幼稚園のお遊戯会の記憶。何故か、ヒロイン役の少女の名前をママと呼んでしまい周りにいた皆に笑われてしまった。今思い出しても酷く恥ずかしい。  奴らが侵入するたびに、私の記憶が蘇る。そう、醜悪だと感じていた其れは――私自身の記憶だった。無数の群れたちは私が積み上げてきた記憶の断片たちだった。  初恋や喧嘩や虐めや万引きやセックス。  被害者であったり、加害者であったり、傍観者であったり、体験者だったり。  それらのうちの殆どは目を背けたなるようなものばかりだった。私が蓋を閉めたのは、これを直視したくないという無意識が存在していたからだと思う。もっと上手くやれたのでは無いか、そんな風に後悔してしまうのは目に見えて明らかだったからだ。 「記憶が醜悪だと感じたのは、私自身が自分のことを好きでいられなかったからか」  記憶と共に齎されるかつての自分への回帰。しかし、パズルが組みあがっていくごとに私は自分のことを嫌いだったという思考が徐々に浮かび上がっていく。  愚かしく、そして無様だった自分。同年代の人間たちを羨むことしか出来ず、逆に貶すことによって自分を保っていた。そんな愚かな私という存在。 「何処から間違えた……なんてそんな言葉は、意味は無いか」  やがて、雪崩れ込む記憶の量も少なくなっていき、最後の其れがゆっくりと顔を覗かせた。  ――私の最後の記憶。バイクで撥ねられそうになった少年の身代わりになった記憶。 「あ……」  私の体は簡単に宙を舞い、地面に叩きつけられる。頭から落ちたのだから、ほぼ即死の状態だった。  しかし、本当に僅かな時間の中で無数の想いがそこに生まれていた。憎悪や後悔、絶望といった殆どが負の感情。いつも通りに世間を恨んでいた卑屈な自分。  しかし、最後にふと浮かんだのは誰かを救えたという事実への満足感だった。 「ぅ……うううう」  私は泣いた。堪えるように、赤ん坊の鳴き声に合わせて泣いた。  死んだという事実は恐ろしく、辛い。こんな自分でも生きていれば――そんな希望だけを信じていた。  けれど、私は選んだ。自分の生き続ける未来と少年の生き続ける未来、その二つを天秤にかけ選択した。それは、誰に強制されたわけでもない、私自身の選択だった。  私は自分ではなく彼を選んだ。そして、僅かな達成感と満足感を得て命を捨てた。  それだけが事実だった。 「私は――愚かだったのかな」  自分ではなく他人を。そんな柄にも無いことを、どうしてこんな場面で思い立ったのか正直理解に苦しむ。最後の最後ですら、私は自分という人間が良く分からい。  結局、私は大馬鹿だったのだ。人生を上手く渡ってゆけなかったのだ。けれど、大馬鹿なのに一人の人間を救うことが出来た。そのことによってもたらされた満足感は確かに存在していた。  一通り泣いた私は、この温かい満足感と達成感を秘めたままいけるのならば悪くは無いのかもしれないなと呟いた。多分、人生に絶望して、死んでいくよりはずっとマシな最後だと思う。半ば自棄ではあったけど、何となく心が楽になった。  私は頭を軽く振り、赤ん坊の傍に膝を付いた。そして、ゆっくりと手を当て目を閉じた。知らない筈なのに知っている、その矛盾は神様や魂のメカニズムの上からみたら、ほんの些細なことに過ぎないのだろう。。  鳴き声が聞こえてくる。「今度は上手くやれるだろうか」と、私は問いかけた。 「さあ、どうなるかな」  私となる者は卑屈に、けれど何処か楽しそうな声で答えた気がした。  私もまた軽く笑う。  自分の意識が徐々にぼやけていくように感じた。静かに再生を迎えていた。  ――ふと気づいた。  赤ん坊の其れは、いつの間にか獣から人間へと変わっていった。  暗闇の世界の中で、優しい光に包まれた赤ん坊は確かに元気な声で泣いていた。