ドライフラワー 闇の社会に生きる私に名前などない。 父も母も分からない。 子供の頃の記憶もない。 私が持っているのは穢れたこの街で生き抜く術と、一輪の青い薔薇。 ただ、それだけだった。 黄昏の空に星たちが瞬き始める頃、私は安アパートを出て、狭い路地一杯に停められた黒塗りのリムジンに乗り込んだ。 何も変わらない日々。 何も変わらない行動。 胸に挿した青い薔薇の飾り物も色褪せることはない。 花は自然に枯れることがないように、人工的に乾燥させられている。 かつては「ありえないもの」の代名詞とされた、青い薔薇のドライフラワーである。 瑠璃色に染められたシルク地のドレスには不釣合いな細工物だが、私にとっては唯一の宝物。 私の記憶以前から持っていた、唯一の物──私自身ともいえた。 乾燥した今となっても、目の覚めるような青さは、清逸さを保っている。 美しさは変わることもない。 何も変わらない。 こうして退屈さを覚えたまま、車は街道へと進み、十分と少々が過ぎた。 窓ガラスに額をぶつけ、音もなく走る車の外を眺めやると、宵闇に浮かぶイルミネーションが煌めいて、私を通り過ぎていく。 「ローズ」 これがこの世界で生きる私の呼び名だ。 「ローズ、“星の王子”の三九〇二号室だ。大事なクライアントだ。粗相のないようにな」 運転手の男から、今日の仕事場所が告げられた。 “星の王子”とは、ハリウッド映画のタイトルであり、その映画に登場するのが今日の仕事場所となるホテルである。 最上階の四十二階には、米国連大使の公邸が置かれていることで広く知られている。 私の仕事相手は、そのような場所に巣食っている享楽家たちばかりだ。 私は返事をする代わりに小さくため息を吐こうとした。 車内の空気を吸い込むと、丁寧になめされたソファの皮革とハバナ産の葉巻、それに蒸留酒のしなやかな香りが肺を満たしていく。 甘い匂いの元をたどると、カルヴァドス産のブランデーをなみなみと注がれたグラスが、マホガニー製のテーブルの上で汗をかいていた。 なるほど。かつての大統領閣下の名を冠するリムジンは、まるで揺れることがないというのは本当だ。 私は今更に、高級車両の乗り心地に感心をした。 だが、これらはいずれもが、ボスの好みである。 車も葉巻も酒も調度品も、すべてがあの男の臭いである。 ──お前もこの酒に相応しい女になれ。 思い出しただけで、私は悪酔いをしたような気分になった。 「ねぇ、ちょっと。窓を開けて。外の空気を吸いたいの」 そう声を掛けたが、運転手は何も答えない。 ただ、ミラー越しに私を一瞥すると、窓の開閉スイッチを押した。 徐々に開かれていく窓の隙間から、光と音が奔流となって、押し寄せてくる。 あまりのまばゆさに、私は目を開けていることが出来なくなった。 しばらくして、私は運転手の呼び声で、意識を覚醒させた。 どうやら私は眠ってしまっていたようだ。 閉じられた窓が、車内に再び静寂の帳を下ろしていたことにすら気がつかなかった。 リムジンは既にホテルのロータリーまで到着している。 「ローズ、そろそろ時間だ」 運転手はハンドルを握ったまま、前を向いていた。 薄目を開けたまま視線を動かすと、背面鏡に映る瞳が私をみつめている。 私は狸寝入りを試みたが、すぐに看破された。 「俺はこの後も仕事があるんだ。ふざけていないで、さっさと部屋に向かえ」 愛想のない男だ。 この男が若衆の中で、ボスの一番のお気に入りというのだから不思議でならない。 口数が少ない、命令に忠実、と運び屋としては優秀な男ではあるが、それだけだ。 目元の涼しさに色気があるが、取り立てて魅力は感じない。 ──退屈な男だ。 思えば、この男とはこの車内で、どれだけの時間を過ごしてきたのだろうか。 数多の男たちは、卑屈になって媚を売るか、脅迫をするか、果ては暴力を振るってまで、私を手に入れようとするのに、この男は未だ手に触れようともしない。 たったの千ドルぽっちでは、私を十分間と留め置くことさえ叶わぬのに。 所詮この男は自我を持たぬ、走狗に過ぎないのだ。 そう結論付けた。 しかし、だからこそ、という想いが脳裏に浮かんだ。 「嫌」 という言葉が口をついたのは、決して気まぐれではない。 この男は他の男達とは違う。 私に対して、下心はおろか、興味の一欠けらも持っていない。 だからこそ、もしもひとたび、この男を振り向かせることが出来たならば── もしかしたらこんな男こそが、本当の私を知る人になるのではないだろうか。 過去を持たぬ、浮き草のような女に、居場所を与えてくれるのではないだろうか。 勿論、打算もある。 この男なら、組織から逃げ切れる。ボスの手から離れられる。 根拠らしい根拠もないのに、不思議とそんな確信さえあった。 ──有り得ない。甘い幻想に過ぎない。 分かっていても、試さずにはいられなかった。 「もう仕事をしたくない」 それは今まで、誰に対しても口にしたことがなかった言葉だった。 私がまだ少女だった頃、ボスの前に連れ出された時から、ただの一度でさえも。 私はソファーにもたれたまま、俯いて拗ねたふりをした。 ここまで。消化不良でごめんね。